もとやまじ
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本山寺ではいただけません
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本山寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年09月08日(日)
参拝:2024年8月吉日
3回目の1泊2日四国八十八か所巡り 2日目の4寺院目です。
駐車場からすぐの門は仁王門で 重要文化財に指定されています。
門をくぐらなくても境内に入れちゃいますが 入ると広い境内です。
南東側には大門が別にありますが こちらは大草鞋が置かれていました。
こちら本山寺は建物が多いです。
どちらも本堂と大師堂は必ずあるのですが それ以外に五重塔・赤堂・鎮守堂・十王堂・お砂ふれ道場・慰霊堂・薬師堂・鐘楼・客殿・庫裏・阿弥陀堂とあります。
本堂など古い建物は 復元工事はされていますが 鎌倉時代の建物だそうです。
古い建物が今に残っているのは 本当に素晴らしいです。
有力者に守られたというのもあるでしょうが 民の力が大きいはずです。
五重塔については 耐震工事がなされ 24時間体制で東京大学地震観測所でモニタリングされているそうです。
未来に残そうという人々の願いが 今までも これからも続いていくことは素晴らしいと思いました。
山号は七宝山 院号は持宝院 宗旨宗派は高野山真言宗 ご本尊は馬頭観音菩薩 創建年は(伝)大同2年(807年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか
ご詠歌:本山(もとやま)に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
でした。
由緒については
寺伝によれば 大同2年(807年) 平城天皇の勅願寺として 空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊 阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。
この時 本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。
中世には寺領2,000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
永安から天正年間(1573年 – 1593年)の戦乱により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けたが 当寺は香川氏の勢力下にあり 早くに長宗我部と婚姻同盟しており「不戦協定」が結ばれていて 焼かれた跡は見つかっていない。
伝承ではこの境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入ったが 本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き 本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。
その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるとある。
澄禅『四国遍路日記』(1653年)や真念『四国辺路道指南』(1687年)には 本堂と仁王門と鐘楼しか記されていないが 『四国遍礼名所図会』(1800年)には 大師堂(1795年建立)・十王堂(1759年建立)・大日堂・鎮守堂・庚申堂(1730年建立)が描かれ 1700年台に五重塔以外は現在とほぼ同じ伽藍が造られた。
江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され 天保年間(1830 – 1844年)には地名から本山寺と改称された。
とありました。
駐車場からすぐの門は仁王門で 重要文化財に指定されています。
門をくぐらなくても境内に入れちゃいますが 入ると広い境内です。
南東側には大門が別にありますが こちらは大草鞋が置かれていました。
こちら本山寺は建物が多いです。
どちらも本堂と大師堂は必ずあるのですが それ以外に五重塔・赤堂・鎮守堂・十王堂・お砂ふれ道場・慰霊堂・薬師堂・鐘楼・客殿・庫裏・阿弥陀堂とあります。
本堂など古い建物は 復元工事はされていますが 鎌倉時代の建物だそうです。
古い建物が今に残っているのは 本当に素晴らしいです。
有力者に守られたというのもあるでしょうが 民の力が大きいはずです。
五重塔については 耐震工事がなされ 24時間体制で東京大学地震観測所でモニタリングされているそうです。
未来に残そうという人々の願いが 今までも これからも続いていくことは素晴らしいと思いました。
山号は七宝山 院号は持宝院 宗旨宗派は高野山真言宗 ご本尊は馬頭観音菩薩 創建年は(伝)大同2年(807年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか
ご詠歌:本山(もとやま)に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
でした。
由緒については
寺伝によれば 大同2年(807年) 平城天皇の勅願寺として 空海が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊 阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。
この時 本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。
中世には寺領2,000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
永安から天正年間(1573年 – 1593年)の戦乱により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けたが 当寺は香川氏の勢力下にあり 早くに長宗我部と婚姻同盟しており「不戦協定」が結ばれていて 焼かれた跡は見つかっていない。
伝承ではこの境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入ったが 本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き 本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。
その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるとある。
澄禅『四国遍路日記』(1653年)や真念『四国辺路道指南』(1687年)には 本堂と仁王門と鐘楼しか記されていないが 『四国遍礼名所図会』(1800年)には 大師堂(1795年建立)・十王堂(1759年建立)・大日堂・鎮守堂・庚申堂(1730年建立)が描かれ 1700年台に五重塔以外は現在とほぼ同じ伽藍が造られた。
江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され 天保年間(1830 – 1844年)には地名から本山寺と改称された。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2013投稿
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