こうやまじ
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甲山寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年09月10日(火)
参拝:2024年8月吉日
3回目の1泊2日四国八十八か所巡り 2日目の8寺院目です。
こちらの甲山寺 ちょっとかわいそうです。甲山の麓にあり 目の前に川も流れているのですが お隣というか寺までの道が砕砂リサイクル工場の横を通っているのです。おそらく甲山を削って工場の敷地を確保したのでしょうが あんまりです。四国霊場で初めてこんな景色を見ました。
さて 駐車場に車を停め 境内へ。
境内には 中門・鐘楼・本堂・大師堂・護摩堂・多聞天堂があります。
本堂と大師堂と鐘楼は木の色が濃く 私の好きな色です。歴史を感じます。
ただ おそらく仏像を傷みから守るためだと思うのですが 狭い格子しかなく さらにガラスかアクリルの板で遮蔽されており 内陣はあまりしっかり拝見できませんでした。
境内には他にも 甲山のうさぎなるものがあり 本尊脇仏の月光菩薩の持物にウサギが描かれていることから 山門や中門の内側および茶堂の屋根と手水舎の前にいるのだそうです。
御朱印もうさぎのものがありましたので うさぎで有名なお寺のようです。
休憩スペースもあり 歩き参拝の方には優しいお寺です。
山号は医王山 院号は多宝院 宗旨宗派は真言宗善通寺派 ご本尊は薬師如来 創建年は(伝)弘仁12年(821年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:十二神(じゅうにしん)味方に持てる戦(いくさ)には おのれとこころ甲(かぶと)やまかな
でした。
由緒については
伝説では 壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると 老翁が現れ この地にお寺を建立すべしとお告げをした。
この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海は この岩窟に毘沙門天を祀った。
その後 嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり 無事に築造を完成に導いた。
弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。
天正年間の兵火により本尊とわずかの寺宝が残ったのみで 『四国徧礼霊場記』(1689年刊)には 「むかし大伽藍の所といえども荒涼せり盛衰は世の数ある・・」と記されている状況であったが 享保20年(1730)に本堂 寛保2年(1742)に大師堂が再建され、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)の挿絵では現在の形に近い形に復興している。
とありました。
こちらの甲山寺 ちょっとかわいそうです。甲山の麓にあり 目の前に川も流れているのですが お隣というか寺までの道が砕砂リサイクル工場の横を通っているのです。おそらく甲山を削って工場の敷地を確保したのでしょうが あんまりです。四国霊場で初めてこんな景色を見ました。
さて 駐車場に車を停め 境内へ。
境内には 中門・鐘楼・本堂・大師堂・護摩堂・多聞天堂があります。
本堂と大師堂と鐘楼は木の色が濃く 私の好きな色です。歴史を感じます。
ただ おそらく仏像を傷みから守るためだと思うのですが 狭い格子しかなく さらにガラスかアクリルの板で遮蔽されており 内陣はあまりしっかり拝見できませんでした。
境内には他にも 甲山のうさぎなるものがあり 本尊脇仏の月光菩薩の持物にウサギが描かれていることから 山門や中門の内側および茶堂の屋根と手水舎の前にいるのだそうです。
御朱印もうさぎのものがありましたので うさぎで有名なお寺のようです。
休憩スペースもあり 歩き参拝の方には優しいお寺です。
山号は医王山 院号は多宝院 宗旨宗派は真言宗善通寺派 ご本尊は薬師如来 創建年は(伝)弘仁12年(821年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:十二神(じゅうにしん)味方に持てる戦(いくさ)には おのれとこころ甲(かぶと)やまかな
でした。
由緒については
伝説では 壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると 老翁が現れ この地にお寺を建立すべしとお告げをした。
この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海は この岩窟に毘沙門天を祀った。
その後 嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり 無事に築造を完成に導いた。
弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。
天正年間の兵火により本尊とわずかの寺宝が残ったのみで 『四国徧礼霊場記』(1689年刊)には 「むかし大伽藍の所といえども荒涼せり盛衰は世の数ある・・」と記されている状況であったが 享保20年(1730)に本堂 寛保2年(1742)に大師堂が再建され、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)の挿絵では現在の形に近い形に復興している。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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