どうりゅうじ|真言宗醍醐派|桑多山(そうたざん)
道隆寺
公式香川県 多度津駅
7:00~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | 山門前、境内の後ろ(無料) |
四国八十八ケ所霊場 第77番札所
山号:桑多山(そうたざん)
宗派:真言宗醍醐派
御本尊:薬師如来
開基:和気道善
領主であった和気道善が、乳母の死を嘆き、小さな薬師如来像を刻み堂を建てたのが始まりとされています。
ずらりと並んだ観音さまが印象的です。
ご本堂
観音さまが並んでおられます。😌
いただいた御朱印です。
四国お遍路第77番札所、桑多山明王院道隆寺どうりゅうじ。桑園に夜光大木あり、道隆親王がその桑で薬師如来を刻み安置。弘法大師は薬師如来を刻み道隆の薬師如来像を胎内に納めた
衛門三郎と弘法大師像
大師堂
本堂
弘法大師1150回忌之塔
【桑多山(そうたざん)明王院(みょうおういん)道隆寺(どうりゅうじ)】
本尊:薬師如来
宗派:真言宗醍醐派
開基:和気道隆
かつて一帯は桑の木が生い茂っていた。712(和銅5)年、当地の領主である和気道隆(みちたか)が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが寺の起源とされる。その後、道隆の子の朝祐(ちょうゆう)は、807(大同2)年、唐から帰朝した弘法大師(774-835)に頼み、90cmほどの薬師如来を彫り、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、七堂伽藍を建立し、父の名から「道隆寺」とした。
【77_T.Hamada's view】
山門。
【77_目なおし薬師】
江戸時代、藩主の子孫の目が悪く、本尊の薬師如来にお参りをしたところ、その子の視力は回復し、後に眼科治療の名手となった。当寺は「目なおし薬師」として広く知られる。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【77_潜徳院殿堂】
目なおし観音。眼病に御利益があると参拝者に人気。
【77_本堂】
【77_大師堂】
【77_仁王門】
【77_仁王阿形像】
【77_仁王吽形像】
【77_多宝塔】
奥は大師堂。
【77_衛門三郎の像】
大師堂前にある大師に許しを請う衛門三郎の像。第51番札所 石手寺は、衛門三郎伝説の寺。
【77_参道脇に並ぶ観音像】
日本全国の観音霊場の本尊などを祀る。255体にも及ぶ。
仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。
大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。
住所 | 香川県仲多度郡多度津町北鴨1-3-30 |
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行き方 | 多度津駅より (1.2km)
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名称 | 道隆寺 |
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読み方 | どうりゅうじ |
参拝時間 | 7:00~17:00 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0877-32-3577 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ご本尊 | 薬師如来 |
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山号 | 桑多山(そうたざん) |
院号 | 明王院(みょうおういん) |
宗旨・宗派 | 真言宗醍醐派 |
創建時代 | 和銅5年(712) |
開山・開基 | 和気道隆 |
札所など | 四国八十八箇所77番
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文化財 | 絹本著色星曼荼羅図(重要文化財)
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ご由緒 | 仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。
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体験 | 御朱印重要文化財札所・七福神巡り |
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