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達谷西光寺ではいただけません
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達谷西光寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年05月08日(日)
参拝:2022年4月吉日
抑々達谷窟は征夷大將軍坂上田村麿公により達谷の靈窟に創建された毘沙門堂を根本道場とし、その御神域に建つ諸堂と、別當達谷西光寺境内の諸堂、及び鎮守社からなる神佛混淆の社寺で、昔のまゝなのです。
古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、達谷西光寺境内と厳格に区別され、毘沙門様が主で別當は従来、毘沙門様に仕へ奉るのが勤めとされ、神事に関わる都合上、弔事に出仕した当日は、鳥居をくぐる事さえ叶わなくなるのです。從って壇家は一軒もなく、寺でありながら葬式を營まない大変珍しい寺であります。
嘗て達谷西光寺に於ては、飛澤にあった別當達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、樺澤坊、下田坊の天台三箇院、さらに赤部あかぶの奉行坊を筆頭に敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、廣照院衆徒として勢い盛んでありました。然し度重なる戦乱で次第に荒廢し、江戸時代には本坊の正念坊と脇院の敎覺院を残すのみとなり、さらに明治維新の廢佛毀釋で、敎覺院は雲南神社として分離されて了ったのです。
参拝コースは決められており、まず受付をすませ両脇に木々が生い茂る参道を進むとすぐに清水寺を彷彿させる建物が姿を現します。これが毘沙門堂ですが、その壮麗は思わず立ち止まってしまうほどです。階段を登ってお香の匂いに包まれた堂内にはいるとその奥に数々の毘沙門天や仏様が整然とならんでいます。これだけでも必見の価値有りですが、毘沙門堂を出ると次に登場するのが源義家公が彫ったとされる岩面大佛です。その他辨天堂やアテルイ由来のお堂など境内はさほど広くはないのですが見応えじゅうぶんです。
古来毘沙門堂境内は殺生禁断地で、達谷西光寺境内と厳格に区別され、毘沙門様が主で別當は従来、毘沙門様に仕へ奉るのが勤めとされ、神事に関わる都合上、弔事に出仕した当日は、鳥居をくぐる事さえ叶わなくなるのです。從って壇家は一軒もなく、寺でありながら葬式を營まない大変珍しい寺であります。
嘗て達谷西光寺に於ては、飛澤にあった別當達谷西光寺廣照院正念坊を筆頭に、樺澤坊、下田坊の天台三箇院、さらに赤部あかぶの奉行坊を筆頭に敎覺院、龍覺坊、無量壽院といった本山派修驗の諸坊からなる一山寺院で、廣照院衆徒として勢い盛んでありました。然し度重なる戦乱で次第に荒廢し、江戸時代には本坊の正念坊と脇院の敎覺院を残すのみとなり、さらに明治維新の廢佛毀釋で、敎覺院は雲南神社として分離されて了ったのです。
参拝コースは決められており、まず受付をすませ両脇に木々が生い茂る参道を進むとすぐに清水寺を彷彿させる建物が姿を現します。これが毘沙門堂ですが、その壮麗は思わず立ち止まってしまうほどです。階段を登ってお香の匂いに包まれた堂内にはいるとその奥に数々の毘沙門天や仏様が整然とならんでいます。これだけでも必見の価値有りですが、毘沙門堂を出ると次に登場するのが源義家公が彫ったとされる岩面大佛です。その他辨天堂やアテルイ由来のお堂など境内はさほど広くはないのですが見応えじゅうぶんです。
国指定史跡・達谷窟毘沙門堂西側の大岩面壁に、11世紀に彫られたといわれる大磨崖仏[だいまがいぶつ]。高さ約16.5m、顔の長さ約3.6mもの貴重なもので、「北限の磨崖仏」として有名だ。明治29年(1895)、胸から下が崩落。風化が激しく、現在は顔のみが残る。
すてき
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