ちゅうそんじ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
中尊寺ではいただけません
広告
中尊寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年05月25日(水)
参拝:2022年4月吉日
【NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』~源義経ゆかりの名所③】
5月22日(日)放送分で源義経の最期が描かれていたため、そのゆかりの名所をご紹介します。
【陸奥国 古刹巡り】
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の東北大本山の寺院。山号は関山(かんざん)。本尊は釈迦如来。2011年にユネスコの世界遺産に登録されている。金色堂は国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国指定の重要文化財。
寺伝によると、平安時代初期850年に円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとしている。ただし円仁開山は確実な史料等による裏付けがないため、実質的には平安時代後期の1105年、藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺(別名、最初院)」を建立したのが始まりとされる。現存する金色堂の上棟は、上棟銘から1124年と判明しており、清衡が自分自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡、子の基衡、孫の秀衡の3代のミイラが安置されている。平泉では、奥州藤原氏4代100年に渡り王朝風の文化が栄え、毛通寺(秀衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、現在でも残っているのは中尊寺金色堂、毛通寺庭園、紺神金銀寺経などわずかのみである。
1189年に奥州藤原氏は滅亡するが、当寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を受けて存続した。のち建武新政期の1337年に大きな火災があり、金色堂以外はほぼ全焼した。江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われた。1654年には仙台・仙岳院が別当寺となり、1665年には江戸・寛永寺の末寺となった。ただ、1689年に『奥の細道』の旅で松尾芭蕉が訪れた時は荒廃ぶりを嘆いたことは有名。明治に入り1909年に本堂を再建、昭和戦後1950年に金色堂須弥壇の学術調査実施、1958年に天台宗東北大本山の称号を許され、天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持された。1968年に金色堂の解体修理完了。2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。
当寺は、JR東北本線・平泉駅の北北東1.5kmの小高い丘の上にある。また境内南東端入口から境内北西端の白山神社はおよそ1kmあり、細長い境内となっていて、見どころは基本1本の参道の両側にある。主な見どころは、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂、中尊寺本堂、峯薬師堂、大日堂、阿弥陀堂、弁才天堂、讃衡蔵、金色堂、経蔵、旧覆殿、白山神社(能舞台)などで、いずれの堂宇でも御朱印(1~2種類)を領布しており、集める場合はなかなか大変。有料拝観は国重文の仏像などを多く収蔵する讃衡蔵と金色堂でもちろん必見。足元は整備され歩きやすいが、多少の傾斜はあり、空気が美味しいので、ちょっとした運動のつもりで参拝するのが良さそう。
今回は、ユネスコの構成資産の一つ、金色堂が国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国重文であることから参拝することに。(実は学生時代の修学旅行以来、およそ40年ぶり2回目の参拝...(^_^;))参拝時は休日の午前中、天気は良くなかったが、コロナ明けということでそこそこ多くの観光客、参拝者が訪れていた。(コロナ発生以来、修学旅行生を久しぶりに見たのがビックリ。^^)
5月22日(日)放送分で源義経の最期が描かれていたため、そのゆかりの名所をご紹介します。
【陸奥国 古刹巡り】
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の東北大本山の寺院。山号は関山(かんざん)。本尊は釈迦如来。2011年にユネスコの世界遺産に登録されている。金色堂は国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国指定の重要文化財。
寺伝によると、平安時代初期850年に円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとしている。ただし円仁開山は確実な史料等による裏付けがないため、実質的には平安時代後期の1105年、藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺(別名、最初院)」を建立したのが始まりとされる。現存する金色堂の上棟は、上棟銘から1124年と判明しており、清衡が自分自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡、子の基衡、孫の秀衡の3代のミイラが安置されている。平泉では、奥州藤原氏4代100年に渡り王朝風の文化が栄え、毛通寺(秀衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、現在でも残っているのは中尊寺金色堂、毛通寺庭園、紺神金銀寺経などわずかのみである。
1189年に奥州藤原氏は滅亡するが、当寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を受けて存続した。のち建武新政期の1337年に大きな火災があり、金色堂以外はほぼ全焼した。江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われた。1654年には仙台・仙岳院が別当寺となり、1665年には江戸・寛永寺の末寺となった。ただ、1689年に『奥の細道』の旅で松尾芭蕉が訪れた時は荒廃ぶりを嘆いたことは有名。明治に入り1909年に本堂を再建、昭和戦後1950年に金色堂須弥壇の学術調査実施、1958年に天台宗東北大本山の称号を許され、天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持された。1968年に金色堂の解体修理完了。2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。
当寺は、JR東北本線・平泉駅の北北東1.5kmの小高い丘の上にある。また境内南東端入口から境内北西端の白山神社はおよそ1kmあり、細長い境内となっていて、見どころは基本1本の参道の両側にある。主な見どころは、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂、中尊寺本堂、峯薬師堂、大日堂、阿弥陀堂、弁才天堂、讃衡蔵、金色堂、経蔵、旧覆殿、白山神社(能舞台)などで、いずれの堂宇でも御朱印(1~2種類)を領布しており、集める場合はなかなか大変。有料拝観は国重文の仏像などを多く収蔵する讃衡蔵と金色堂でもちろん必見。足元は整備され歩きやすいが、多少の傾斜はあり、空気が美味しいので、ちょっとした運動のつもりで参拝するのが良さそう。
今回は、ユネスコの構成資産の一つ、金色堂が国宝、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台等が国重文であることから参拝することに。(実は学生時代の修学旅行以来、およそ40年ぶり2回目の参拝...(^_^;))参拝時は休日の午前中、天気は良くなかったが、コロナ明けということでそこそこ多くの観光客、参拝者が訪れていた。(コロナ発生以来、修学旅行生を久しぶりに見たのがビックリ。^^)
境内東端入口全景。
境内入口の<寺号標>。参道は徐々に登って行く。
巨木が林立する参道。
参道左側の<八幡堂>。1057年の前九年の役の際に源頼義、義家親子が安倍氏追討のため当地に至り、ここ月見坂で八幡神に戦勝祈願したとされる。
<八幡堂>内部。
かつての境内入口かな。
参道左側の<弁慶堂>。江戸時代後期1826年の再建。桃山式で総ケヤキ造り。御朱印あり。
<弁慶堂>正面。本尊は勝軍地蔵菩薩。傍らに弁慶立往生木造、義経公坐像、弁慶自作立像、弁慶主従笈を安置。天上には草花の絵画。
参道左側の<瑠璃光院>。参観不可みたい。
参道右側の<地蔵堂>。御朱印あり。
<地蔵堂>正面。
地蔵堂前の売店裏の<道祖神>。御朱印あり。
参道左側の<薬師堂>。2020年に再建。御朱印あり。
<薬師堂>内部。本尊は慈覚大師策と伝わる薬師如来立像、脇仏は日光菩薩立像、月光菩薩立像。
参道左側の<観音堂>。
<観音堂>内部。
参道右側の<中尊寺山門>。
階段を上り山門をくぐったところ。目の前に枝が広がる大きな古松。
山門をくぐって右側にある<授与所>。
山門をくぐって左側にある<鐘楼>。
古松の後ろの<本堂>。明治時代1909年の建立。本尊は丈六釈迦如来。
本堂手前の<水屋>。
本堂に安置されている<丈六釈迦如来坐像>。2013年に開眼法要。
檀の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」を護持。
檀の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」を護持。
本堂に向かって左手にある<寺務所・納経所>。御朱印はこちら。
納経所そばにある庭園。
参道に戻って進んで、左側にある<不動堂>。
<不動堂>アップ。
参道の右側にある<峯薬師堂>。江戸時代前期1689年に現在地に再建。方三間、単層宝形造、瓦葺。御朱印あり。
<峯薬師堂>内部。本尊は薬師如来坐像で国指定の重要文化財(讃衡蔵に安置)。
参道右側にある<大日堂>入口。御朱印あり。
<大日堂>全景。
<大日堂>内部。
参道右側の少し高い場所にある<鐘楼>。南北朝時代1343年鋳造。
参道右側奥にある<阿弥陀堂>。御朱印あり。
<阿弥陀堂>内部。
参道の右側の池の上に浮かんでいる<弁財天堂>。御朱印あり。
<弁財天堂>正面。
参道左側にある<讃衡蔵(さんこうぞう)>。中尊寺と山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設で3千点以上の国宝・重要文化財が収蔵されている。代表的な展示としては、もと本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像(重文、中尊寺蔵)、峰の薬師堂にあった木造薬師如来坐像(重文、願成就院蔵)、閼伽堂にあった木造薬師如来坐像(重文、金色院蔵)の3体の巨像。名称は、奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の偉業を讃えるという意味で付けられたとのこと。この讃衡蔵と金色堂のみが有料拝観で、拝観券はこちらで購入する。
参道の左手にある<金色堂>。平安時代後期1124年、奥州藤原氏の初代藤原清衡による建立。東を正面とする方三間の仏堂。平等院鳳凰堂とともに平安時代の常読経建築の代表例とされ、国宝。
<金色堂>全景。写真左側奥から覆堂内に入る(覆堂内は撮影禁止)。金色堂の御朱印は覆堂内にて。
金色堂出口の先(西側)にある<経蔵>。建築年代は鎌倉時代末期と推定されている(一部は平安時代の古材)。御朱印あり(弁財天堂の授与所にて)。
<経蔵>正面。内部には、かつて螺鈿八角須弥壇(国宝)が置かれ、紺紙金字一切経(国宝)、堂内具(国宝)を納めていた。壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像(国重文)を安置していた(讃衡蔵へ移動)。
経蔵のちょっと奥(北西)にある<関山天満宮>。鎌倉時代に京都北野天満宮より勧請。
<関山天満宮>の社殿。北野天満宮の天満大自在天神の御真影と観世音菩薩を祀る。
関山天満宮の右側(北側)にある<松尾芭蕉像>。
松尾芭蕉像の右側(北側)にある<金色堂旧覆堂>。建築年代は室町時代中期と推定されている。1964年に100m北西に移築。国指定の重要文化財。
<金色堂旧覆堂>内部。
旧覆堂の北東側にある<西谷坊>。
西谷坊の<本堂>。元三大師を祀る。
西谷坊の東側にある<釈迦堂>。
釈迦堂前から北向きに伸びる、中尊寺鎮守<白山神社>への参道。
白山神社の<能舞台>。1853年に伊達藩主・伊達慶邦朝臣により再建。国指定の重要文化財。
能舞台の<松の絵>。
<白山神社・拝殿>全景。左右の建物は授与所。
中尊寺創建と同じ、平安時代の850年に慈覚大師が加賀の白山を当地に勧請、十一面観音を造り中尊寺鎮守・白山権現とした。
中尊寺創建と同じ、平安時代の850年に慈覚大師が加賀の白山を当地に勧請、十一面観音を造り中尊寺鎮守・白山権現とした。
白山神社・拝殿後ろの<本殿>。
白山神社の裏手<西物見>からの景色。
社殿の右手にある<白山神社十二支一代守護神社>。
最後に、境内東側の弁慶堂や地蔵堂のちかくにある<東物見>からの景色。(^▽^)/
すてき
投稿者のプロフィール
惣一郎1269投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。