しわふるいなりじんじゃ
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志和古稲荷神社のお参りの記録(2回目)
投稿日:2025年02月02日(日)
参拝:2025年1月吉日
所在地:岩手県紫波郡紫波町升沢字小森108
主祭神:宇迦御魂命
社 格:
創 建:
御眷属
昭和二十九年九月二十六日、この一帯を襲った台風十五号(青函連絡船洞爺丸沈没の時の台風)により社前の御神木大杉が倒伏いたしました。その残木整理をしていたところ、同月二十九日(不思議にもご縁日の日)その根元の空洞の土の上から御眷属キツネのミイラが出現いたしました。全国に稲荷神社は多いのですがいまだかつてこのような例は聞いたことがありません。(紫波古稲荷神社HPより)
由緒
志和古稲荷神社の創建の正確な年代は明らかではありませんが、一見、社名に知られるように往古にあったことがわかります。通説では平安時代、源頼義・義家が東北征伐の際、現紫波町の陣ヶ岡に滞陣中、ここに勧請したといわれています。
以後、その当時この地一帯を領地としていた斯波氏の厚い崇信を受けてまいりました。ことに古くは本宮(もとみや)と称し、修験道を以って世襲した祀職が明治維新まで本宮寺(ほんぐうじ)と称していました。
江戸時代には、早くに南部藩の直祭榊山稲荷神社に次ぎ、公には領内稲荷社の第二位に列せられておりました。また、藩主南部利直公以来、隣接の志和稲荷神社と共に数回の社領の御進献がありました。歴代藩主の五穀豊穣や所願成就を願う厚いご信仰により、志和両稲荷に、年に何度にもわたる御親拝(多い時で百名から二百八十名)、御代拝がありました。
この事実は社名にもある通り、いかにその由緒が深遠なものであるかを物語っております。南部利済公が参詣に使用するために造られた稲荷街道(盛岡城・志和両稲荷間約20km)整備工事は、実に二万二千人以上を要した大土木工事であったそうです。(天保五年~天保六年)
近年は崇敬者の熱意を集めて建造物・諸施設とも整い、農業・商工業・漁業・交通関係・建築土木関係・とりわけ開運福徳の神として深い信仰の源として県内外より崇敬されています。
(紫波古稲荷神社HPより)
主祭神:宇迦御魂命
社 格:
創 建:
御眷属
昭和二十九年九月二十六日、この一帯を襲った台風十五号(青函連絡船洞爺丸沈没の時の台風)により社前の御神木大杉が倒伏いたしました。その残木整理をしていたところ、同月二十九日(不思議にもご縁日の日)その根元の空洞の土の上から御眷属キツネのミイラが出現いたしました。全国に稲荷神社は多いのですがいまだかつてこのような例は聞いたことがありません。(紫波古稲荷神社HPより)
由緒
志和古稲荷神社の創建の正確な年代は明らかではありませんが、一見、社名に知られるように往古にあったことがわかります。通説では平安時代、源頼義・義家が東北征伐の際、現紫波町の陣ヶ岡に滞陣中、ここに勧請したといわれています。
以後、その当時この地一帯を領地としていた斯波氏の厚い崇信を受けてまいりました。ことに古くは本宮(もとみや)と称し、修験道を以って世襲した祀職が明治維新まで本宮寺(ほんぐうじ)と称していました。
江戸時代には、早くに南部藩の直祭榊山稲荷神社に次ぎ、公には領内稲荷社の第二位に列せられておりました。また、藩主南部利直公以来、隣接の志和稲荷神社と共に数回の社領の御進献がありました。歴代藩主の五穀豊穣や所願成就を願う厚いご信仰により、志和両稲荷に、年に何度にもわたる御親拝(多い時で百名から二百八十名)、御代拝がありました。
この事実は社名にもある通り、いかにその由緒が深遠なものであるかを物語っております。南部利済公が参詣に使用するために造られた稲荷街道(盛岡城・志和両稲荷間約20km)整備工事は、実に二万二千人以上を要した大土木工事であったそうです。(天保五年~天保六年)
近年は崇敬者の熱意を集めて建造物・諸施設とも整い、農業・商工業・漁業・交通関係・建築土木関係・とりわけ開運福徳の神として深い信仰の源として県内外より崇敬されています。
(紫波古稲荷神社HPより)
すてき
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