つくばさんじんじゃ
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筑波山神社ではいただけません
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筑波山神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年11月01日(月)
参拝:2020年10月吉日
筑波山神社(つくばさん~)は、茨城県つくば市にある神社。式内社で、旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。祭神は、筑波男大神(伊弉諾尊)と筑波女大神(伊弉冉尊)。双耳峰である筑波山を神体山として祀り、西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神、東峯女体山頂(877m)に筑波女大神を祀る。境内は中腹の拝殿から山頂を含む約370ha(東京ドーム80個分)に及ぶ。
創建は不詳。社伝によると、関東地方に人が住むようになったころから、筑波山は信仰の対象として仰がれてきた。第十代崇神天皇の御代(約2千年前)に、筑波山を中心として筑波国、新治国、茨城国の三国が建置されると、物部氏の一族・筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。第十二代景行天皇の皇太子・日本武尊が東征の帰途に筑波山に登山したことが古書に記載され、その御歌によって連歌岳の名が残っている。奈良時代の『万葉集』には、筑波の歌が25首掲載されている。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』には「常陸国 筑波郡 筑波山神社 二座」と記載され、男神は名神大社、女神は小社に列した。中世以降は仏教の興隆で筑波山にも堂塔が立つこととなった。江戸時代になると、幕府は筑波山が江戸の鬼門を守る神山として神領1500石を献じた。幕末には藤田小四郎らが尊王攘夷の兵を起こした筑波山事件の舞台となった。明治時代に入り、近代社格制度の下、県社に列格した。
当社は、つくばエクスプレス・つくば駅の北方15kmにある筑波山にある。拝殿は中腹にあり、本殿が男体山頂、女体山頂にある。両山頂は700mほど離れている。拝殿周りには、一般の大規模神社同様、鳥居、隋身門、社務所があるが、当然に本殿はない。拝殿から本殿まで、何種類かの登山コースがあり自分の足で登ることもできるが、拝殿そばの宮脇駅から筑波山ケーブルカーに乗ると約8分で筑波山頂駅まで行くこともできる。山頂からは関東一円を見渡すこともできるため、観光客にも登山客にも人気がある。
今回は、常陸国の式内社、茨城県の旧県社、神社本庁の別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中で、秋の行楽シーズンということもあり、大勢の観光客が来ていた。
創建は不詳。社伝によると、関東地方に人が住むようになったころから、筑波山は信仰の対象として仰がれてきた。第十代崇神天皇の御代(約2千年前)に、筑波山を中心として筑波国、新治国、茨城国の三国が建置されると、物部氏の一族・筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。第十二代景行天皇の皇太子・日本武尊が東征の帰途に筑波山に登山したことが古書に記載され、その御歌によって連歌岳の名が残っている。奈良時代の『万葉集』には、筑波の歌が25首掲載されている。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』には「常陸国 筑波郡 筑波山神社 二座」と記載され、男神は名神大社、女神は小社に列した。中世以降は仏教の興隆で筑波山にも堂塔が立つこととなった。江戸時代になると、幕府は筑波山が江戸の鬼門を守る神山として神領1500石を献じた。幕末には藤田小四郎らが尊王攘夷の兵を起こした筑波山事件の舞台となった。明治時代に入り、近代社格制度の下、県社に列格した。
当社は、つくばエクスプレス・つくば駅の北方15kmにある筑波山にある。拝殿は中腹にあり、本殿が男体山頂、女体山頂にある。両山頂は700mほど離れている。拝殿周りには、一般の大規模神社同様、鳥居、隋身門、社務所があるが、当然に本殿はない。拝殿から本殿まで、何種類かの登山コースがあり自分の足で登ることもできるが、拝殿そばの宮脇駅から筑波山ケーブルカーに乗ると約8分で筑波山頂駅まで行くこともできる。山頂からは関東一円を見渡すこともできるため、観光客にも登山客にも人気がある。
今回は、常陸国の式内社、茨城県の旧県社、神社本庁の別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中で、秋の行楽シーズンということもあり、大勢の観光客が来ていた。
筑波山に行く途中、プチ渋滞箇所から霊峰・筑波山を望む。周りに山がないので高く見える。
門前町の最奥に位置する境内入口にある<鳥居>。手前には<撫で牛>。土台には<奉納 筑波さんろく 紫峰牛>とある。
参道を進むと、参道の直線上に<御神橋>がある。切妻造小羽葺屋根付、間口一間、奥行四間。安土桃山様式の反橋(そりはし)。
1590年に徳川家康が江戸入府後、筑波山を江戸城鎮護の霊山と定めたが、御神橋は1633年に3代将軍家光が寄進、1702年に5代将軍綱吉が改修した。
御神橋は通行禁止なので、参道は神橋を避けて左側を通る。
1590年に徳川家康が江戸入府後、筑波山を江戸城鎮護の霊山と定めたが、御神橋は1633年に3代将軍家光が寄進、1702年に5代将軍綱吉が改修した。
御神橋は通行禁止なので、参道は神橋を避けて左側を通る。
御神橋の左側を通ると、参道左側の樹木の影に、初めて<社号標>が現れる。その先に<手水舎>がある。
ここから徐々に階段を登って行く。
階段を登ると<隋神門>。間口5間2尺、奥行3間。江戸時代初期の1633年、3代将軍徳川家光が建立。以後焼失を繰り返し、現在の建物は1811年の再建。神仏習合時代の仁王門で、神仏分離後に隋神門となった。
隋神門の左手には、すごく大きな巨木が見える。
近づいてみると、異常に太い根周りに感動。周囲9.8m、高さ32m、樹齢800年の<大杉>。
階段を登り切ったところの右側にある<手水舎>。
<拝殿>全景。江戸時代に中禅寺の本堂(大御堂)があった場所に、明治時代の神仏分離後の1875年に建立された。
<拝殿>正面。内部の扁額には<筑波神社>とある。
拝殿手前の右側にある<常陸七福神>の堂宇。
常陸七福神の堂宇の後ろにある<春日神社本殿>(左)と<日枝神社本殿>(右)。
拝殿正面から左手を望む。正面にあるのが<授与所>。御朱印はこちら。授与所の後ろに、参集殿と社務所がある。
斜め前から<拝殿>全景。重厚感が半端ない。拝殿は標高270mにあるが、ここから本殿のある山頂までの約370haがすべて当社の境内地。
拝殿と社務所の間の奥、少し高い場所にある<鳥居群>。
鳥居群の後ろには、<朝日稲荷神社(通称;出世稲荷)>(右)と<稲荷社>(左)がある。
鳥居群のある高台から拝殿を望む。さらに大きく見える。拝殿のすぐ後ろには何もなく、本殿は男体山山頂・女体山山頂にある。
拝殿と社務所の間の奥にある<御神水>。
時流に合わせ、<狛犬>もマスクをしている。(^_^;)
筑波山中腹の<拝殿>から山頂の<本殿>までの行き方は、登山かケーブルカーかロープウェーの3択。登山コースも難易度別にいくつかある。
自分たちは、安直にケーブルカーを選択。コロナ対策に、定員制限がかかっていたが、待ち時間は少々で済んだ。
自分たちは、安直にケーブルカーを選択。コロナ対策に、定員制限がかかっていたが、待ち時間は少々で済んだ。
ケーブルカー山頂駅は、男体山山頂(西側)と女体山山頂(東側)の間の、飲食店が数軒並ぶ広場にある。先に<男体山本殿>に向かう。
男体山山頂までは、距離は短いが急峻な個所がある。写真は、ちょっとした岩登りの場所。
こちらは<男体山本殿>。一間社流造。1955年改築。
本殿の脇にある<授与所>。御朱印はこちら。
男体山山頂(標高871m)から見える景色。たぶん西方向。
ケーブルカーの駅がある広場に戻って、次は逆サイドにある<女体山本殿>を目指す。
女体山山頂までは、急峻な個所はないが、やや距離がある。参拝者(観光客?登山客?)が多く、参道は渋滞気味。
こちらが<女体山本殿>。一間社流造。1979年改築。
本殿の脇にある<授与所>。御朱印はこちら。
女体山山頂(標高877m)から見える景色。たぶん東方向。記念撮影スポットの岩山の向こうは?(苦手なので見ていない...(^_^;))
東京から70kmほど、参拝も観光も登山もできるので、幅広い年齢層の方々におすすめ! (^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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