だいしょうじ(つちうらだいしふどうそん)
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楽しみ方大聖寺(土浦大師不動尊)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年04月18日(土) 06時57分54秒
参拝:2024年1月吉日
茨城県 土浦市 永国 に境内を構える、羽黒山 今泉院 大聖寺、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼しております、2024.に 北関東不動尊霊場にて参拝致しました、寺院対応は 親切で快く対応して下さりました、また訪れたいと思える寺院様でした、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました山号は 羽黒山、院号は 今泉院、寺号は 大聖寺、宗旨 宗派は 真言宗 豊山派、ご本尊は 大聖不動明王、北関東三十六不動尊霊場 第三十一番札所 土浦大師不動尊、創建は平安時代中期の一条天皇(第66代天皇・在位:寛和2年:986年~寛弘8年:1011年)の御代の長徳元年(995)、成尊僧都(京都 醍醐寺)により開山したのが始まりと伝えられています。
当初は今泉寺と称し現在の亀井墓地近辺にありましたが応安7年(1374)領主である小田城主小田孝朝(小田氏の第9代当主)によって居城の4方向の出城として機能させる小田城四方護寺(普門寺・大聖寺・法泉寺・南円寺)が制定され今泉寺もその1つとなった為、西平塚(現在のつくば市西平塚)に移されました。
小田氏は南北朝時代に当地方の南朝方の有力武将として重きを成し、争乱が治まると鎌倉府から関東八屋形に指定されました。関東八屋形は、応永6年(1399)に鎌倉公方足利満兼が就任の際に当時の関東管領上杉朝宗が定めたとされ、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家が鎌倉公方を支える一族として戦国時代にこの制度が崩壊するまで続きました。
その後、今泉寺大聖院として現在地に移された事が大永6年(1526)に確認されており、天正4年(1576)の間に羽黒山今泉院大聖寺に寺号を改めています。中世は歴代小田氏が庇護した為、寺領7千貫、僧兵300名を擁するなど寺運は隆盛しますが、同じ常陸国の大名である佐竹氏の台頭は小田氏にとって脅威であり天正元年(1573)の手這坂の戦いに敗れると小田城も落城し、天正11年(1583)には佐竹氏に形式上は降伏しています。天正18年(1590)の小田原合戦では逸早く豊臣家に対して臣従した佐竹氏とは対象的に小田氏は混乱に乗じて旧領奪還を試みた為、参陣を怠り、結局旧領復帰は叶わず改易となり小田城も廃城、小田氏の没落により庇護者を失い大聖寺も衰微します。江戸時代に入ると大聖寺は土浦藩から篤い庇護を受け、貞享2年(1685)に火災があった後には土浦城主松平信興が山門を寄進し、土屋政直以降の歴代藩主が寺領を安堵しています。その後も檀林所格の本寺として隆盛し末寺160余ヵ寺を抱える大寺として栄え延享2年(1745)には伝法灌頂道場を開設しています。又、元禄8年(1695)、5代将軍徳川綱吉が50歳になった際、健康長寿の祈願の為、大日如来像(旧本尊・現奥本尊)が三嶋惣検校安一によって大聖寺に奉納されています。三嶋安一は伊豆出身の盲目の鍼医で、杉山流鍼術を習得すると貞享2年(1685)には綱吉の病気を鍼術で治療、関東総検校にも任ぜられ全国45箇所に鍼術が行える講堂を開設しています。土浦の伝承では宍塚村出身で旗本三嶋家の養子になったとされ、同村にある般若寺の釈迦堂は安一が寄進したものと伝えられています。江戸時代末期の文久3年(1863)に山門(茅葺屋根・土浦市指定文化財)や総門(茅葺屋根・土浦市指定文化財)など一部を除いて大聖寺の多くの堂宇は火災により焼失、昭和60年(1985)にようやく本堂が再建されています
当初は今泉寺と称し現在の亀井墓地近辺にありましたが応安7年(1374)領主である小田城主小田孝朝(小田氏の第9代当主)によって居城の4方向の出城として機能させる小田城四方護寺(普門寺・大聖寺・法泉寺・南円寺)が制定され今泉寺もその1つとなった為、西平塚(現在のつくば市西平塚)に移されました。
小田氏は南北朝時代に当地方の南朝方の有力武将として重きを成し、争乱が治まると鎌倉府から関東八屋形に指定されました。関東八屋形は、応永6年(1399)に鎌倉公方足利満兼が就任の際に当時の関東管領上杉朝宗が定めたとされ、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家が鎌倉公方を支える一族として戦国時代にこの制度が崩壊するまで続きました。
その後、今泉寺大聖院として現在地に移された事が大永6年(1526)に確認されており、天正4年(1576)の間に羽黒山今泉院大聖寺に寺号を改めています。中世は歴代小田氏が庇護した為、寺領7千貫、僧兵300名を擁するなど寺運は隆盛しますが、同じ常陸国の大名である佐竹氏の台頭は小田氏にとって脅威であり天正元年(1573)の手這坂の戦いに敗れると小田城も落城し、天正11年(1583)には佐竹氏に形式上は降伏しています。天正18年(1590)の小田原合戦では逸早く豊臣家に対して臣従した佐竹氏とは対象的に小田氏は混乱に乗じて旧領奪還を試みた為、参陣を怠り、結局旧領復帰は叶わず改易となり小田城も廃城、小田氏の没落により庇護者を失い大聖寺も衰微します。江戸時代に入ると大聖寺は土浦藩から篤い庇護を受け、貞享2年(1685)に火災があった後には土浦城主松平信興が山門を寄進し、土屋政直以降の歴代藩主が寺領を安堵しています。その後も檀林所格の本寺として隆盛し末寺160余ヵ寺を抱える大寺として栄え延享2年(1745)には伝法灌頂道場を開設しています。又、元禄8年(1695)、5代将軍徳川綱吉が50歳になった際、健康長寿の祈願の為、大日如来像(旧本尊・現奥本尊)が三嶋惣検校安一によって大聖寺に奉納されています。三嶋安一は伊豆出身の盲目の鍼医で、杉山流鍼術を習得すると貞享2年(1685)には綱吉の病気を鍼術で治療、関東総検校にも任ぜられ全国45箇所に鍼術が行える講堂を開設しています。土浦の伝承では宍塚村出身で旗本三嶋家の養子になったとされ、同村にある般若寺の釈迦堂は安一が寄進したものと伝えられています。江戸時代末期の文久3年(1863)に山門(茅葺屋根・土浦市指定文化財)や総門(茅葺屋根・土浦市指定文化財)など一部を除いて大聖寺の多くの堂宇は火災により焼失、昭和60年(1985)にようやく本堂が再建されています
すてき
みんなのコメント(2件)
fivejapan-welder-A-Kさん、こんばんは。five と申します。
詳細なご由緒をいつも興味深く拝見しています。
ところで、本堂虹梁上にいる、動物たちの賑やかさに興味をそそられました。土浦であれば、それほど遠くないので、是非お詣りして拝観したいと思います。ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
2026年04月19日(日) 22時06分31秒
こちらこそ よろしくお願いします、観音霊場、不動尊霊場 護国神社 一の宮神社 中心で参拝してましたので、詰まらない投稿ばかりですが、たまたま見つけました、そう言われれば他では見ませんね、鳥避けを兼ねてる様に見えましたよ
2026年04月22日(水) 06時52分48秒
投稿者のプロフィール

japan-wel…663投稿
宮城県 石巻市に在住、元々出張で日本各地を訪れる機会が在り思い出作りに道の駅スタンプラリーにも参加、気がつけば全国制覇者2022年第184号、今は休日 旅行で全国各地の食べ物、景色、温泉を探索、...もっと読む
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