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筑波山大御堂ではいただけません
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つくばさんおおみどう|真言宗豊山派筑波山

筑波山大御堂
茨城県 つくば駅

御朱印について
御朱印
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巡礼

その他の巡礼の情報

坂東三十三観音
第二十五番札所

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歴史

関東八州を一望に見渡す霊峰筑波山は、今から千
二百有余年前の桓武天皇の延暦元年(782)、徳一
上人が東国に下って筑波に錫を留め、荒廃していた
山頂二社を再建し、筑波山大権現と称し、中復の地
に堂宇を建立して、千手観世音菩薩を安置、知足院
中禅寺と号した。

 弘仁年間(810~824)弘法大師空海上人によ
って真言密教の道場が開かれたと伝えられる。‘
 その後、江戸時代に至り、知足院宥俊の代、御朱
印五百石を得て復興し、中興の第一世となる。
                             
 続いて徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉、豊山
長谷寺に留学、学を修めて慶長十九年知足院の住職
に転じて第二世となる。徳川家の恩寵を極めて厚く
した。 
 三代将軍家光は筑波山上の両神社を建築し、更に
華美壮麗な大御堂、三重塔、鐘楼、楼門などを造建
して輪奥の美を整え尊崇した。
 第十一世隆光大僧正(貞享三年)の代には、寺領千
五百石の寺格を有する大寺院となる。
 隆光は、徳川五代将軍綱吉の信頼を一身に集め、
元禄元年神田橋畔に大伽藍を建立して、寺名を護持
院と改称した。しかし、この護持院は享保二年(1717)
火災に遇い焼失した。
 
その後、幕命により護持院は護国寺の境内に移さ
れ、本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護持
院の住職が護国寺を兼務することになる。
筑波山には院代を置き寺務を執行させた。この時代
より筑波山大御堂と護国寺とのかかわりが始まる。
 やがて徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎え、政治
機構が一変し、護持院は廃寺となる。廃仏毀釈の嵐
が知足院中禅寺を襲ったのは、明治五年(1871)
八月二十七日のことである。大御堂、十一面観音蛍
など華美を尽した堂塔は打ちこわされ、仏像、仏具
経巻等は境内に積まれ焼却された。
 本尊千手観世音は、尊崇する信者によって手厚く
護られ、仮堂に移されたが、寺籍なき状態が続いて
いた。

 昭和五年、護国寺持仏堂として維時することにな
る。その仮堂も昭和十三年七月三日の豪雨による天
災地変に遭遇、濁流と共に一瞬にして埋没する。幸
いに七て、ご本尊は難をのがれ、損傷なく助かり、
応急的な処置として民家に安置されることとなる。
 昭和十五年、佐々木教純貫首代に再建の認可を受
け、護国寺と筑波町の方々と協議の上、筑波神社の
左側の土地、風光明楯なる位置に大御堂の絶好なる
敷地と定め、本堂、庫裡、山門、鐘楼堂を建立する
計画が立案された。しかし太平洋戦争激化の状況と
なり、再建の夢はたたれる結果となる。
 
時移り昭和三十四年、岡本教海貫首代、再び大御
堂再建の計画が立てられ、筑波町の有志の方々の協
賛を得て、藤代町の民家(総欅造り)を買受け、千手
観世音を安置するお堂に改修、昭和三十六年に完成
した。
 阪東三十三観音霊場第二十五番札所として、多く
の巡札者に信仰されている霊験あらたかな千手観音
さまであります。

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筑波山大御堂の基本情報

住所茨城県つくば市筑波748
行き方

つくばエクスプレス線つくば駅下車、筑波山シャトルバス「筑波山神社」バス停下車

アクセスを詳しく見る
名称筑波山大御堂
読み方つくばさんおおみどう
通称大御堂教会
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳なし
電話番号029-866-0126
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

巡礼の詳細情報

坂東三十三観音

詳細情報

ご本尊十一面千手観音
山号筑波山
院号知足院
宗旨・宗派真言宗豊山派
開山・開基徳一
ご由緒

関東八州を一望に見渡す霊峰筑波山は、今から千
二百有余年前の桓武天皇の延暦元年(782)、徳一
上人が東国に下って筑波に錫を留め、荒廃していた
山頂二社を再建し、筑波山大権現と称し、中復の地
に堂宇を建立して、千手観世音菩薩を安置、知足院
中禅寺と号した。

 弘仁年間(810~824)弘法大師空海上人によ
って真言密教の道場が開かれたと伝えられる。‘
 その後、江戸時代に至り、知足院宥俊の代、御朱
印五百石を得て復興し、中興の第一世となる。
                             
 続いて徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉、豊山
長谷寺に留学、学を修めて慶長十九年知足院の住職
に転じて第二世となる。徳川家の恩寵を極めて厚く
した。 
 三代将軍家光は筑波山上の両神社を建築し、更に
華美壮麗な大御堂、三重塔、鐘楼、楼門などを造建
して輪奥の美を整え尊崇した。
 第十一世隆光大僧正(貞享三年)の代には、寺領千
五百石の寺格を有する大寺院となる。
 隆光は、徳川五代将軍綱吉の信頼を一身に集め、
元禄元年神田橋畔に大伽藍を建立して、寺名を護持
院と改称した。しかし、この護持院は享保二年(1717)
火災に遇い焼失した。
 
その後、幕命により護持院は護国寺の境内に移さ
れ、本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護持
院の住職が護国寺を兼務することになる。
筑波山には院代を置き寺務を執行させた。この時代
より筑波山大御堂と護国寺とのかかわりが始まる。
 やがて徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎え、政治
機構が一変し、護持院は廃寺となる。廃仏毀釈の嵐
が知足院中禅寺を襲ったのは、明治五年(1871)
八月二十七日のことである。大御堂、十一面観音蛍
など華美を尽した堂塔は打ちこわされ、仏像、仏具
経巻等は境内に積まれ焼却された。
 本尊千手観世音は、尊崇する信者によって手厚く
護られ、仮堂に移されたが、寺籍なき状態が続いて
いた。

 昭和五年、護国寺持仏堂として維時することにな
る。その仮堂も昭和十三年七月三日の豪雨による天
災地変に遭遇、濁流と共に一瞬にして埋没する。幸
いに七て、ご本尊は難をのがれ、損傷なく助かり、
応急的な処置として民家に安置されることとなる。
 昭和十五年、佐々木教純貫首代に再建の認可を受
け、護国寺と筑波町の方々と協議の上、筑波神社の
左側の土地、風光明楯なる位置に大御堂の絶好なる
敷地と定め、本堂、庫裡、山門、鐘楼堂を建立する
計画が立案された。しかし太平洋戦争激化の状況と
なり、再建の夢はたたれる結果となる。
 
時移り昭和三十四年、岡本教海貫首代、再び大御
堂再建の計画が立てられ、筑波町の有志の方々の協
賛を得て、藤代町の民家(総欅造り)を買受け、千手
観世音を安置するお堂に改修、昭和三十六年に完成
した。
 阪東三十三観音霊場第二十五番札所として、多く
の巡札者に信仰されている霊験あらたかな千手観音
さまであります。

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