りゅうこくじ|臨済宗妙心寺派|瑞雲山
龍谷寺のお参りの記録一覧
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明石漁港近くの寺社巡りの続きです。
先の本立寺から少し東に1分歩いた所にあります。
街の区画1ブロックの半分以上占める境内の広さです。
本堂の大きな屋根が 少し離れていてもよく見えます。
山門はないようですが 門の手前が駐車場になっており 境内の西側は広い墓地になっています。
門を入ってから本堂まで 60mぐらいあるでしょうか 境内は南北に広いです。
境内には 金毘羅大権現と稲荷神社もあります。
山号は瑞雲山 宗旨宗派は臨済宗妙心寺派 ご本尊は延命地蔵願王菩薩 です。
由緒についてはHPに
当時はもともと浄土宗の寺院であったが 元和五年 (1619)に明石藩主小笠原忠政が その母の菩提寺として境内を拡張し 峰高寺と改称して扶持を続けた。
寛永九年 (1632)小笠原忠眞が九州鎮護として豊前小倉に移封されると共に 峰高寺も小倉に移転した。
その後しばらく幕府直轄地となっていたが 寛永十年信州松本から入封した松平氏の二代目丹波守光重時代(1634~1638)に 天叢和尚が峰高寺の跡地に開山し 寺号も瑞雲山龍谷寺と改め臨済宗妙心寺派に所属した。
文献によれば当時の堂宇は総建坪340坪に及び 班内屈指の名刹として尊厳を集めたという。
人々の厚い信仰にささえられ栄えてきた当山も 元禄九年(1696)火災により焼失したため その後寺域や堂宇を縮小して再建し 連綿と法燈を伝えて来たが 残念にも昭和二十年七月(1945)の大空襲で一字残らず灰燼にに帰してしまった。
昭和四十年(1965)に仮本堂を建築したが 平成元年1989)往年の規模(九間×六間)を持つ新本堂の再建に着手 平成三年(1991)開山堂と共に完成した。
とありました。
門
本堂
庫裡かな
金毘羅大権現
稲荷神社
![きどっち](https://minimized.hotokami.jp/a1QLesNXHNgmUxv-rGbGfVSd9BUMAjXlLrsWMBmOxik/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20210304-013216_lnNjeEzpzq.jpg@webp)
臨済宗妙心寺派 瑞雲山 龍谷寺(りょうこくじ)
※「りゅうこくじ」ではなく「りょうこくじ」と読むのだそうです。
元和元年(1615年)の創建で、もともとは浄土宗の寺院だったとのこと。
その後、初代明石藩主・小笠原忠政が元和5年(1619年)に母の菩提寺として境内を拡張。
このとき峰高寺と改称したそうですが、寛永9年(1632年)豊前小倉へ転封の際、峰高寺も小倉に移転したそうです。
三代目明石藩主・松平光重のときに、峰高寺の跡地に天叢和尚が瑞雲山龍谷寺を開山。
臨済宗妙心寺派となりました。
元禄9年(1696)火災により焼失、その後再建するも昭和20年の大空襲により灰燼に帰したそうです。
現在の本堂は平成元年に再建に着手、平成3年に完成したとのこと。
山門
この手前左側に駐車スペースがあります
黒髪塚
「江戸藩邸詰めの馬廻役で剣の名手として誉れ高かった中田八十之助の死を悼み、その父中谷勝助が国許の明石に届けられた黒髪を埋め霊を慰めたものである」
~龍谷寺HPより~
永代供養塔
山門を入ってすぐ右手には境内社
金毘羅大権現
写真は撮っていませんが、この左手には稲荷神社の祠もあります。
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