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いくたじんじゃ

生田神社の御由緒・歴史
公式兵庫県 三ノ宮(JR)駅

ご祭神《主》稚日女尊
ご由緒

当社は稚く瑞々しい日の女神「稚日女尊」をお祀り申し上げ、古く神功皇后三韓より御帰還の砌、御神誨によって「活田長峡国」即ち現今の処に御鎮斎になった由緒高い大社で、神戸の地名は当社の「神戸(かんべ)」から起こったものであります。
古来より朝廷の尊崇極めて篤く、生業守護・健康長寿の神として名高く、家運隆昌・円満和楽の御神徳を仰ぎ奉らむと、年々多くの神前結婚式をかぞえ、「縁むすびの神」として有名であります。
又、平安の昔文人墨客が名勝「生田の森」を訪れ、その後源平合戦の古戦場となり、近くは昭和二十年六月五日大東亜戦争の戦災により悉く焼土と化し、昭和三十四年四月氏子崇敬者の奉賛により、戦災の復興を成し遂げ、更に昭和五十九年式年造替の制を定め、輪奐の美弥々整いましたが、平成七年一月十七日未明阪神淡路を襲った大震災により、御本殿をはじめ境内各所に甚大な被害を受けました。然しながら皆様方の不断の努力により平成八年六月、以前にも増して立派に復興し「蘇りの社」とも言われております。更に平成二十一年九月の第三回式年造替に続き、平成二十九年四月には、全ての整備事業を完遂いたしました。
尚、境内には「生田の森」「生田の池」「箙の梅」「敦盛の萩」等幾多の史跡を有し、古くより今日に至るも有名な処であります。

歴史
歴史[編集] 日本書紀によると、神功皇后元年(201年)に神功皇后が三韓征伐を終わらせて帰還するなか、船が現在の神戸港で進まなくなったために神占を行った。すると、稚日女尊が現れて「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅(うながみのいさち)に命じて生田の地に祭らしめ(私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)」との神託があった。そこで皇后は海上五十狭茅を神主として、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に稚日女尊を祀らせた。これが当社の始まりであるという[1]。 砂山にあった当社であるが、延暦18年(799年)4月...Wikipediaで続きを読む
引用元情報生田神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%94%9F%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=101975899

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