こんしんじ|真言宗御室派|如意山
金心寺のお参りの記録一覧
真言宗御室派 如意山 金心寺(こんしんじ)
天智天皇7年(668年)、藤原鎌足の子供とされる定慧上人による建立。
兄・有間皇子の菩提を弔う為に開いたのが始まりとされています。
七堂伽藍をそなえ、広大な寺域を持ち、三田は金心寺の門前町としてとても栄えたそうです。
天正6年(1578年)、荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたことにより有岡城の戦いが起きます。
このとき三田城城主は荒木家一族が務めていたため、三田城は羽柴秀吉や明智光秀に攻められ落城してしまいます。
その兵火により金心寺も焼失、御本尊は三田御池に沈められ難を逃れたそうです。
江戸時代には侍町に薬師堂として再建され、明治になって現在地に移され、御本尊は引き上げられて安置されました。
この御本尊の弥勒菩薩坐像の体内から胎内から「金心寺三福田(恩田・敬田・悲田)により三田と改める」という文字が発見され、三田という地名が起こったとのこと。
この三福田(恩田・敬田・悲田)とは、
「人を敬う心の田」
「恩を忘れない心の田」
「困っている人を助ける心の田」
なのだそうです。
この御本尊(弥勒菩薩坐像)のほか、弥勒菩薩坐像や絹本著色十一面観音画像が国の重文に指定されています。
ちなみにその後の三田城城主は次々と替わり、寛永10年(1633年)から九鬼水軍で名の通る九鬼久隆が鳥羽城から移り、そこから260年ほど九鬼氏が三田藩主を務めました。
歴代の藩主が余生を過ごしたとされる御下屋敷の黒門がこの金心寺の山門として移築されています。
御朱印もあるようなのですが、どうもご不在だったようです。
またご縁があればいつかいただきたいと思います。
寺標
山門
三田藩主御下屋敷の黒門が移築されたもの
御手洗所
本堂
護摩堂
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