永祥寺の開創は明治36年6月18日(西暦1903年)と伝わっています。
初代住職は明治7年、愛知県額田郡福岡町に織田利造の六男として生を受けた織田活道。
活道は岡崎市龍海院の住職近藤守賢師、額田郡深溝村本光寺の住職温嶽耕雲師について仏法を学び、岡崎市私立共同館に入って普通教育を修めました。
その後、愛知県三和村最明寺の住職北條珪峯師の室に入り、正式な仏法の継承者としての印可を受けました。
明治26年には愛知県岡崎市成就院の寺院の住職となりましたが火災により伽藍が焼失する苦難に見舞われ、北海道に渡ることを決意します。帯広に到着したのは明治33年11月3日、当時は300戸に満たないまだまだ小さな町の頃でした。
函館市 高龍寺の住職であった雲林大法大和尚からの支援を受け西1条南11丁目(今のふくいホテル付近)に草庵を結び、これを帯広での自身最初の説教所としました。
明治36年(1903年)現在の西2条南3丁目に移転し、84坪の堂宇を建立、その年の6月18日”永祥寺”の寺号公称を得ました。帯広として寺号の公称を受けたのはこれが始まりで、帯広における寺院の草分けということになっています。
当時の帯広は鉄道一本もなく、帯広から郡部に通じる道路も刈分け程度で、昼も熊や狐、鹿が密林に遊んでいたという時代でした。
明治38年、活道和尚は日露戦争中の樺太に渡り、南半を視察。
曹洞宗管長より南樺太の曹洞宗開教の命を受け樺太開教師として布教活動にあたり、大泊・豊原・真岡に布教所を設立しました。
41年には樺太軍人布教師に任命されています。
帯広の開拓は厳しい寒さと虫害で困難を極め、行き倒れて無縁仏となった方が大勢いたといわれています。その無縁仏を供養するため、永祥寺の観音講(後の梅花講)が600円を寄進し、帯広の開拓者「晩成社」が所有していた土地に六地蔵を建立しました。
現在は永祥寺境内に移転され大切に祀られています。
ちなみに帯広の開拓者依田勉三さんは当時永祥寺のお檀家で、初代住職の活道和尚が葬儀を勤めたのです。
(永祥寺公式HPから引用) |