御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方
【サポーター特典】幸せと健康を毎月ご祈願
100年後に神社お寺を残せる未来へ

えいしょうじ|曹洞宗十勝山

永祥寺
北海道 柏林台駅

午前7時30分から午後5時まで

パーキング
駐車場
あり

境内

御朱印について御朱印
あり
ありません
限定
-
御朱印帳
-
ありません

おすすめの投稿

高砂あさっぴー
高砂あさっぴー
2025年09月01日(月) 18時13分59秒
1395投稿

2回目の参拝。前回は知りませんでしたがこのお寺は帯広開拓の祖である依田勉三の菩提寺なんだとか。境内では新しい納骨堂を建設中。昔は荼枳尼天を祀るお稲荷様があったようで当時の写真がありました。現在は神狐が残っています。仕事で手が疲れているので良くなるように瓶づる尊者様の手をいっぱい撫で撫でしてきました。

永祥寺の本殿・本堂

本堂

永祥寺の本殿・本堂

本堂内

永祥寺の本殿・本堂

本堂内

永祥寺の仏像

観音様と神狐

永祥寺の狛犬

神狐

永祥寺の本殿・本堂

WiFiあります

永祥寺の本殿・本堂

本堂の提灯

永祥寺の本殿・本堂

本堂の提灯

永祥寺の本殿・本堂

今回も龍神様に手を合わせてきました

永祥寺の芸術

本堂の書

永祥寺のその他建物

建設中の納骨堂

永祥寺の手水舎

手水

永祥寺の地蔵

開拓者を偲ぶ六地蔵

永祥寺の像

埴輪

永祥寺のおみくじ

おみくじがありました

永祥寺の仏像

仏像

永祥寺の歴史

昔の写真

永祥寺の仏像

観音講の写真
境内の観音様です

永祥寺の鳥居

かつてあった荼枳尼天を祀るお稲荷様

永祥寺の庭園

前回は気付かなかった寺号標と参道

もっと読む
投稿をもっと見る|
2

歴史

永祥寺の開創は明治36年6月18日(西暦1903年)と伝わっています。
初代住職は明治7年、愛知県額田郡福岡町に織田利造の六男として生を受けた織田活道。
活道は岡崎市龍海院の住職近藤守賢師、額田郡深溝村本光寺の住職温嶽耕雲師について仏法を学び、岡崎市私立共同館に入って普通教育を修めました。
その後、愛知県三和村最明寺の住職北條珪峯師の室に入り、正式な仏法の継承者としての印可を受けました。
明治26年には愛知県岡崎市成就院の寺院の住職となりましたが火災により伽藍が焼失する苦難に見舞われ、北海道に渡ることを決意します。帯広に到着したのは明治33年11月3日、当時は300戸に満たないまだまだ小さな町の頃でした。
函館市 高龍寺の住職であった雲林大法大和尚からの支援を受け西1条南11丁目(今のふくいホテル付近)に草庵を結び、これを帯広での自身最初の説教所としました。
明治36年(1903年)現在の西2条南3丁目に移転し、84坪の堂宇を建立、その年の6月18日”永祥寺”の寺号公称を得ました。帯広として寺号の公称を受けたのはこれが始まりで、帯広における寺院の草分けということになっています。
当時の帯広は鉄道一本もなく、帯広から郡部に通じる道路も刈分け程度で、昼も熊や狐、鹿が密林に遊んでいたという時代でした。
明治38年、活道和尚は日露戦争中の樺太に渡り、南半を視察。
曹洞宗管長より南樺太の曹洞宗開教の命を受け樺太開教師として布教活動にあたり、大泊・豊原・真岡に布教所を設立しました。
41年には樺太軍人布教師に任命されています。
帯広の開拓は厳しい寒さと虫害で困難を極め、行き倒れて無縁仏となった方が大勢いたといわれています。その無縁仏を供養するため、永祥寺の観音講(後の梅花講)が600円を寄進し、帯広の開拓者「晩成社」が所有していた土地に六地蔵を建立しました。
現在は永祥寺境内に移転され大切に祀られています。
ちなみに帯広の開拓者依田勉三さんは当時永祥寺のお檀家で、初代住職の活道和尚が葬儀を勤めたのです。
(永祥寺公式HPから引用)

歴史をもっと見る|
2
名称

永祥寺

読み方

えいしょうじ

参拝時間

午前7時30分から午後5時まで

トイレ祥雲閣
御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号0155-24-3250
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://eishouji.info/
おみくじ

あり

SNS

詳細情報

ご本尊釈迦牟尼仏
山号

十勝山

宗旨・宗派曹洞宗
創建時代

1903年(明治36年)

開山・開基

織田活道

ご由緒

永祥寺の開創は明治36年6月18日(西暦1903年)と伝わっています。
初代住職は明治7年、愛知県額田郡福岡町に織田利造の六男として生を受けた織田活道。
活道は岡崎市龍海院の住職近藤守賢師、額田郡深溝村本光寺の住職温嶽耕雲師について仏法を学び、岡崎市私立共同館に入って普通教育を修めました。
その後、愛知県三和村最明寺の住職北條珪峯師の室に入り、正式な仏法の継承者としての印可を受けました。
明治26年には愛知県岡崎市成就院の寺院の住職となりましたが火災により伽藍が焼失する苦難に見舞われ、北海道に渡ることを決意します。帯広に到着したのは明治33年11月3日、当時は300戸に満たないまだまだ小さな町の頃でした。
函館市 高龍寺の住職であった雲林大法大和尚からの支援を受け西1条南11丁目(今のふくいホテル付近)に草庵を結び、これを帯広での自身最初の説教所としました。
明治36年(1903年)現在の西2条南3丁目に移転し、84坪の堂宇を建立、その年の6月18日”永祥寺”の寺号公称を得ました。帯広として寺号の公称を受けたのはこれが始まりで、帯広における寺院の草分けということになっています。
当時の帯広は鉄道一本もなく、帯広から郡部に通じる道路も刈分け程度で、昼も熊や狐、鹿が密林に遊んでいたという時代でした。
明治38年、活道和尚は日露戦争中の樺太に渡り、南半を視察。
曹洞宗管長より南樺太の曹洞宗開教の命を受け樺太開教師として布教活動にあたり、大泊・豊原・真岡に布教所を設立しました。
41年には樺太軍人布教師に任命されています。
帯広の開拓は厳しい寒さと虫害で困難を極め、行き倒れて無縁仏となった方が大勢いたといわれています。その無縁仏を供養するため、永祥寺の観音講(後の梅花講)が600円を寄進し、帯広の開拓者「晩成社」が所有していた土地に六地蔵を建立しました。
現在は永祥寺境内に移転され大切に祀られています。
ちなみに帯広の開拓者依田勉三さんは当時永祥寺のお檀家で、初代住職の活道和尚が葬儀を勤めたのです。
(永祥寺公式HPから引用)

体験食事・カフェ御朱印
Youtube
「みんなでつくる御朱印・神社お寺の検索サイト」という性質上、掲載されている情報の正確性は保証されませんので、必ず事前にご確認の上ご利用ください。
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!

この寺院の僧侶様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の寺院の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

ホトカミのデータについて

ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。

ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
行きたい
行った
お問い合わせ

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ