たけじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方多家神社のお参りの記録一覧

広島市は一旦終了してお隣の府中町へ。やたらと道が渋滞しており、大した距離ではないのに時間が掛かります。又、境内に停めて参拝後に石段下迄下りました。式内社「多家神社」の後継社です。歴史がある様でない不思議な存在です。中世に社勢いが衰退し、江戸時代には「たけい社」を境内社に持つ松崎八幡宮と安芸国総社の総社が論社とされ論争になり、明治になると両社を廃社し、新たに神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡とされるこの地に創祀されたものです。凄いのが後世禍根を残さぬように両社にあった古文書類を焼却してしまったことです。あまりに乱暴ですね。

明治四十二年(1909)奉納の注連柱


手水舎

寛政七年乙卯年(1795)奉納の手水鉢


文政八年(1825)奉納の狛犬



社務所

「神武天皇東征御留潭霊地」石標

由緒書

明治四十二年(1909)奉納の一の鳥居


文政十二己丑年(1829)奉納の燈籠


燈籠

石段

石段上から

明治四十四年(1911)奉納の燈籠


明治四十二年(1909)奉納の二の鳥居


大正十二年(1923)奉納の燈籠


手水舎

手水盤


神楽殿

狛犬


境内案内図

由緒書

注連柱

宝蔵(重要文化財) 広島城三の丸に鎮座していた稲荷社の建造物を移築したもの

宝蔵側面

宝蔵案内板

神馬像


昭和四十九年(1974)奉納の燈籠


おもいで石

慰霊碑

大正十一年(1922)再建の拝殿 旧社殿は広島寿三の丸の稲荷社を移築したものでしたが、大正四年(1915)焼失

扁額



中門

燈籠

大正十一年(1922)再建の本殿



本殿背面


境内社 天神社


明治五年壬申(1872)奉納の境内社鳥居


石段

境内社 貴船神社

燈籠

出征軍人記念碑

八咫烏みくじ

広島御朱印さんぽ③多家神社と埃宮⛩️へ参拝🙏御朱印でめぐる週末さんぽに掲載されていたので上がらせて頂きました😊宮司さんに色々話しを聞きました伊勢神宮へのバス旅の計画があるとかで一般の人では入れない所まで行けたり神事参加出来たりするみたいです参加出来たら行きたいと思いました😊

鳥居⛩️

手水舎

由来

拝殿

社額

本殿

御朱印書き置き500円

埃宮

埃宮拝殿

埃宮御朱印書き置き500円

埃宮特別御朱印1000円

御朱印さんぽ

地御前神社参拝後に帰ろうとしていましたが、何故か東に向かいたくなってマップを見ていたら多家神社を見つけました。
これも何かのご縁かもしれません。
最初駐車場がわからずに道に迷いお寺にたどり着きました。これはだめかなと思って道を抜けたらまさかの隣にいらっしゃいました。
階段を登ると鳥居の影が朝日に伸ばされているのが、何だか心地よくてこういうのが好きなんだよなぁと写真を撮りました。
参拝後に帰ろうと振り返ったら日が昇っているはずなのに影が伸びているように見えました。不思議なとこともありますね。
正面鳥居近くの社務所にて御朱印を授かりました。
貴重なお時間をありがとうございます。

正面鳥居です。

階段です。何も見えないのでこの先に何があるのか気になるような雰囲気です。

この鳥居から伸びる影を見ると、何とも言えない良さを感じました。

手水舎です。

由緒説明です。


拝殿です。

奥の方にいらっしゃいます。こちらが御本殿でしょうか。

帰るとき振り返ると影が伸びたような錯覚が。鳥居の右から見たからでしょうか。


階段上からの景色もいいですね。

境内左手にある貴船神社です。

水の神様とのことです。


御朱印は3種類授かりました。こういう御朱印はついつい欲しくなってしまいますね(笑)

■多家神社(たけじんじゃ)(広島県安芸郡府中町)
主祭神/神武(じんむ)天皇、安芸津彦命(あきつひこのみこと)
古事記・日本書紀ゆかりの地。神武天皇が立ち寄られた際の皇居が、日本書記では埃宮(えのみや)、古事記では多祁理宮(たけりのみや)と記述されているとのこと。
下の駐車場は少し入りづらく、誤って通り過ぎてしまうと一歩通行道路に入ってしまうので要注意。私がそれをやってしまって、知らずに逆走しそうになり近隣の方の助言を受けたりと、少し焦った参拝でした。
----------
安芸国三社/厳島神社、速谷神社、多家神社

拝殿

入り口

境内案内図

下の段の手水舎

下の段の手水舎

下の段 駐車場の鳥居
奥の階段を登っていきます

階段を登ったところ

上の段の手水舎

宝蔵
広島城の三の丸稲荷社より移築したもので広島城内にあった現存唯一の建物、県指定文化財。

宝蔵

拝殿

拝殿

ご由緒

拝殿

拝殿

拝殿

本殿 左後方より

鳥の話

御朱印の説明書き

御朱印300(置)×2

安芸国安芸郡の式内後裔社です。安芸国の式内社は3社すべてが名神大社というなかなかに高い崇敬が集められていました。その中でも多家神社は神武天皇さまが日向→大和へ向かうまでの行宮跡に創建された神社であり、「埃宮」の別名も持ちます。

《鳥居と石門》
よく神社行くと鳥居じゃないこの石柱だけの門がありますが、たまになんと書いているのかわからない文言の時がありますよね。

《表参道》
小高い丘の上にあります。

《境内》
工事していたのかトラックが何台か止まってました。

《手水舎》
水は止まってました。

《宝蔵》
広島城にあった三の丸稲荷社から移築されたもので、校倉造の様式となっています。同じ建築様式の建物が石上神宮と酒解神社にありますね。

《由緒書き》
👁チェックポイント‼️
式内社である多家神社は中世になると社勢が衰え所在がわからなくなってしまいます。そして江戸時代になると多気神社であるという主張する松崎八幡宮(具体的には境内社のたけい社)と安芸国総社が長らく争っていました。
そして明治に式内社への関心が高まったときこの問題も激化し、最終的には現在地に新たに多気神社を創建し、争いが再発しないよう論社の2社を廃絶し、古記も全て焼却されました。

《拝殿》🙏
同じように論争が絶えなかった例として徳島の忌部神社があり、あちらは決着がつかなかった末に、折衷案で現在の忌部神社を新たに創建して終結しました。
神社と古記まで焼却するのはやりすぎだったような気も・・・

《おみくじ》
神武天皇さまに所以の深い八咫烏モチーフとなっています。

《御朱印》
2種類あります。書き置きならすぐに、直書きは預けて後日取りに来なければなりません。

《社務所》
御朱印とともに八咫烏と金鵄の描かれた絵馬をいただきました。

式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の後継神社として、明治6年(1873年)に創祀された。
社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀されたものとしている。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。
中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」と、安芸国総社である「総社」が式内多家神社の後裔社を主張し、論争となった。結局、明治6年両社を廃止し、現在地の「誰曽廼森(たれそのもり)」に社殿を造営して、両社で祀られていた神を祀る「多家神社」が新たに創建された。この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。翌明治7年に県社に列格した。

今日は朝から雨でした。土曜日なので昼に腰のリハビリの予約を入れています。しかし、母親が土曜日も仕事になり、リハビリが終わって帰ってもお昼寝してしまうと思い、思い切って神社参りです。

何か音がするなと思い、境内の方を見ると、結婚式かな?やってました。
まぁ、僕はあまり邪魔にならないように行動しました。

お参りもして、さて、御朱印を頂きに行こうと。あっ!!!小銭がない。。100円玉があまりない・・・・。
御朱印はいただける金額は少なからずあるのだが・・・と思い、頂きに行ったところ、御朱印が2枚。ありました。「えっ!!!」「ど、どうしよう!2枚とも頂いたら小銭がたらない」
恐る恐る「もうしわけありません。大きいのしかないのですが・・・。よ、よろしいでしょうか?」と、そしたら「あ、大丈夫ですよ」と優しい声。

よかった。では両方をと多家神社の御朱印と埃宮(えのみや)の御朱印を頂きました。
あ~~~失礼なことしてしまった。申し訳ありません。
今後気を付けます。
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ





























































62
0