じんこうじ|浄土宗|廣学山
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方100年後に神社お寺を残せる未来へ
神光寺について
新田義貞家臣 中野藤内左衛門景春の居城、中野城跡に建つ寺院。
おすすめの投稿

邑楽キリシタン伝承地その2
このお寺の門前にある延命地蔵の台座の蓮華座。
これが花弁が4枚で十字型をしてるのでクルスではないかというのですが・・・さすがにこれはちょっとw
それより寺名の方が気になる。神の光・・・まさにキリシタンと何か関係ありそうな名前でわ!?(;・`д・´)
そういえば邑楽という地名も「オーラ」から来てるに違いない!
(和名類聚抄に載ってるらしいのであり得ませんw そもそも元々は「おはらぎ」と読んだそうです)
御朱印情報が皆無だったのですが、実際に行ってみて何となく理由がわかりました。
かなり広大な墓地があり、墓石業者と提携してるらしい立派な休憩所もあり。
寺自体も白壁の大伽藍で、居宅もセレブな豪邸、おまけにガレージにはベンツを初めとする高級車が数台・・・
ああこりゃ檀家寺として十分過ぎるほど潤ってる。御朱印なんてチンケな商売に手を出す気なんてサラサラないなとw
一応呼び鈴押してみましたが無反応でした。
境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|歴史
神光寺の寺域は、もとは鎌倉時代末期の文永二年(1265年)に、新田氏の一族 中野景継によって築城された中野城跡であった。
神光寺の前身である善正寺は、正和三年(1314年)に、景継の子で新田義貞家臣であった中野藤内左衛門景春が、持阿上人を招いて、前原(浅間神社付近)に開山したのが始まりと伝えられている。
延元3年(1338年)越前国の藤島の戦いにおいて、中野景春は新田義貞とともに戦死したため、中野城は一度廃城となる。
戦国時代、小泉城主 富岡氏配下の宝田和泉守が、中野氏の故城を修築し本拠としたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に伴い再び廃城となる。
江戸時代初期の寛永二年(1625年)に、前原から中野城跡に境内を移し寺号を「神光寺」と改称した。
――――――――――
【神光寺の大カヤ】
境内には推定樹齢750年、樹高21m、根周り15m、目通り5.6m、枝張り東西20m、南北23mの大カヤがあり、貴重な事から昭和54年(1979)に群馬県指定天然記念物に指定されている。
――――――――――
【志士之碑】
享保三年(1718年) 0館林藩領の農民たちが、年貢減免を求めて江戸に強訴におよぶ事件があった。
農民たちは、途中の板橋の宿で説得され、名主が代表して江戸の藩邸に年貢減免の哀訴嘆願をした。
その結果、年貢減免の要求は認められたが、翌年(1719年) 中野村の名主 竹岸武兵衛ら三人の名主が事件の首謀者として、斬罪、闕所(財産没取)、家族追放という重い処分を受けた。
これが「館林騒動」といわれるもので、三人の名主は、農民を救うために犠牲になった「享保の三義民」として後世に語り継がれている。
――――――――――
【キリシタン地蔵】
神光寺の参道入口に延命地蔵がある。
この地蔵の蓮華花台が十字架のように見え、邑楽町に伝わる隠れキリシタン遺物の一つではないかという説があるが、定かではないとのこと。
神光寺の情報
| 住所 | 群馬県邑楽郡邑楽町中野3015 |
|---|---|
| 行き方 |
神光寺の基本情報
| 名称 | 神光寺 |
|---|---|
| 読み方 | じんこうじ |
| 電話番号 | 0276-88-1839 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| ご本尊 | 《本尊》阿弥陀如来 |
|---|---|
| 山号 | 廣学山 |
| 院号 | 等照院 |
| 宗旨・宗派 | 浄土宗 |
| 創建時代 | 正和三年(1314年) |
| 開山・開基 | (開基)中野景春 (開山)持阿上人 |
| 文化財 | 神光寺の大カヤ(群馬県指定天然記念物)
|
| ご由緒 | 神光寺の寺域は、もとは鎌倉時代末期の文永二年(1265年)に、新田氏の一族 中野景継によって築城された中野城跡であった。
|
| ご利益 | |
| 体験 |
ホトカミのデータについて
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社お寺
周辺エリア
神光寺に関連する記事
おすすめのホトカミ記事

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ



























