がんじょうじ|真言宗智山派
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今日は軽く岐阜市内の寺院巡りをしました。
先ず1寺目は、岐阜市大洞に在る如意山 願成寺です。大洞は岐阜市の最東、関市との市境です。
真言宗智山派で、本尊は秘仏・十一面観音。
この十一面観音像は県指定文化財で、他に秘仏・大日如来像、阿弥陀如来像、金剛力士像も県指定文化財。不動明王像と秘仏・弘法大師像は市指定文化財です。
秘仏で指定文化財である本尊・十一面観音や大日如来の開帳日を聞くために寺院に電話した所「本尊等はコロナにより未定。ただ、この4月1日と2日に弘法大師像は開帳するので良かったら参拝して下さい。」との事でしたので伺った次第です。
この寺院は美濃三十三観音霊場の第16番札所で、2年ちょっと前に参拝しています。
672年の壬申の乱にて大海人皇子の勝利に貢献した美濃国の豪族・村国男依が、芥見の地に山間堂という御堂を建て、大海人皇子より授かった観音像を祀ったのが始まりと伝わる。721年に僧・泰澄が山間堂を現在地に移し、大洞山清水寺に改称した。743年に大仏造立のために仏像鋳造の専門家を探すための聖武天皇の使者が清水寺に滞在した際、夢のお告げにより出会った人物が日野金丸という鋳造の専門家で、金丸を伴って都に帰り、その後に大仏が完成し、仏の御加護と感謝して、752年に聖武天皇は如意山願成寺という勅号を下し、行基に伽藍の造営を命じた。行基は今までの観音像を胎内仏として十一面観音像を造った。937年藤原純友の兵火により焼失。鎌倉時代になって再建され、再び大規模な伽藍の寺院となったが、1567年織田信長の稲葉山城攻めの兵火により焼失。1653年に神光寺の僧・宥遍上人によって再興された。
寺院の手前約80mの道路沿いに仁王門だけがあります。昔は境内だったのでしょう。県指定文化財の金剛力士像が護っています。ただ周りは保護のための透明樹脂パネルがあり、光が反射してやや見辛いのは仕方無いです。
道路突き当りが寺院への石段です。突き当りを右へ行けば集合墓地の駐車場、左へ行けば寺院墓地の駐車場です。車を停めて戻ると、石段と白山神社の鳥居があります。明治の神仏分離で分けられたのかわかりませんが、境内は仕切りもなく共用している模様です。(ただ願成寺本堂は南向きで、白山神社本殿は西向き。)
石段を上がると右側に鐘楼と中将姫誓願桜。満開を過ぎて結構花は散っていました。その先に手水。左側に本堂です。早速本堂に上がらせて頂きました。須弥壇の真ん中に秘仏本尊・十一面観音を安置してある閉扉の厨子で、その前にお前立ち。厨子の両側に二天像。右側の脇間には秘仏・大日如来を安置してある閉扉の厨子で、その前にお前立ち。左側の脇間には弘法大師坐像、今回開帳です。其々に手を合わせました。あと、文化財指定の阿弥陀如来と不動明王の所在がわからず、いらっしゃった若い僧侶に聞きましたが残念ながらわからずでした。
それから、白山神社にも手を合わせました。
こちらは本堂内には納経所はなく、墓地の手前の本坊にあります。本坊へ行って御朱印を頂きました。
余談ですが、少し北へ行った所(関市)に百年公園があり、公園内に岐阜県博物館がありますので行ってきました。恐竜に力を入れているのか化石や全身骨格標本展示が多数ありましたので、お親子連れでそこそこ賑わっていました。1人でしげしげと歴史の展示を観ているジジイは私だけ。岐阜市内の済法寺所蔵の地蔵菩薩立像、不動明王立像、四天王立像(全て県指定文化財)が展示されていたのは良かったです。(公園無料、駐車場無料、博物館340円)
御朱印
仁王門
阿形
吽形
左に願成寺、右に白山神社
鐘楼
中将姫誓願桜(756年に中将姫がこの地を訪れ、病気治癒の願掛けを行なう。治癒後、1本のヤマザクラを植えたのがこの桜と伝わる)
手水
稲荷神社
馬頭観音
本堂
白山神社
拝殿
本殿
神明神社、秋葉神社
多度神社
本坊(納経所)
オマケ:百年公園
百年公園内にある岐阜県博物館
真言宗智山派の寺院。672年の壬申の乱にて大海人皇子の勝利に貢献した美濃国の豪族、村国男依が、大海人皇子から授かった観音像を祀ったのが最初。
境内にある『中将姫誓願桜』は天然記念物である。平安時代初期に中将姫が病気の治癒をこの寺で祈り、平癒したためにこの桜を植えたという伝説がある。
本日はご住職が2件の葬儀に出かけ不在のため、留守番?ご住職のお母様?が御朱印を対応頂きましたが、書き置き御朱印が見つかりませんでした。時間を改めて伺いご住職に丁寧に直書き対応頂きました🙏
山門?
木造仁王尊
大きな鞋もありました。
鐘楼
本堂
中将姫誓願桜
途中に美味しそうな蕎麦屋さんが……
名称 | 願成寺 |
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読み方 | がんじょうじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 058-243-2154 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://ganjouji.wixsite.com/ganjouji |
SNS |
巡礼の詳細情報
美濃西国三十三観音霊場 第16番 | 御詠歌: 願いなる 深き誓ひに 引かれ来て 仏の縁に おおぼらの寺 |
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美濃四国 第19番 | 御本尊:十一面観世音菩薩 |
詳細情報
宗旨・宗派 | 真言宗智山派 |
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ご由緒 | 弘文元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた美濃の豪族、村国男依が、天武天皇より賜わった、高句麗伝来の観音小像と仏舎利を芥見の里に堂宇を建てて安置し、山間堂と呼んだ。養老5年(721)、越前の国から泰澄という高僧が訪れ、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺と称した。聖武天皇の御代になって、大仏の鋳造が計画されたとき、鋳造の技術を持った仏師を探し出すよう命ぜられた役人が、大洞山清水寺(願成寺)を訪れて参篭し、観世音菩薩に祈りを捧げたところ、夢に観世音菩薩が現れて、日野金丸という仏師を探し出すことが出来た。やがて大仏が完成し、天皇は大変感謝なさって、大洞山清水寺に、改めて「如意山願成寺」という勅号を下さり、1メートルほどの十一面観音像を造って、今まで祀っていた観音小像と仏舎利をその胎内に収め、これを本尊として七堂伽藍を造営した。弘仁5年(814)、弘法大師が関東の方へ行かれる途中に願成寺に立ち寄られた。しばらくご滞在の間に、金剛界大日如来の像と、ご自身の像を作って、寺に納められた。その後、何度かの盛衰を繰り返し、室町時代になると、幸いに土岐美濃守の祈願所となり、土岐政房が、舎弟長山左京の子、長山太郎の家臣である桜井一角に寺の復興を命じ、やがて昔日の繁栄を取り戻した。永禄10年(1567)織田信長が稲葉山城を攻めた時、戦に負けた斉藤竜興の兵隊の一部が願成寺に逃げ込んだため、それを取り囲んだ信長の軍隊に焼かれて、寺は本堂一つを残して七堂伽藍も下寺の12坊も全部が灰になってしまった。信長の焼き討ち後、しばらく住む僧も無く、寺は荒れるに任せていたが、承応年中(1653年頃)下有知(第24番霊場)の神光寺という寺の僧で、宥遍上人という人が来て寺を再興した。この宥遍上人が願成寺の中興の祖で、現願成寺の初代の住職とされている。元禄2年(1689)、第2世の時、願成寺は新義真言宗智山派の寺となった。 |
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