神田神社のお参りの記録一覧
神社の項ですが、しばらく悲しいお寺の話をさせていただきます。人口2,000人余りの東白川村には現在お寺は1寺もありません。江戸時代までは常楽寺と蟠龍寺の2寺があったそうです。明治初頭に政府が神仏分離令を発令しました。それを拡大解釈し、東白川村とその周辺(中津川、恵那の1部など)を治めていた苗木藩は廃仏毀釈を行いました。仏教を排斥し、神道に改宗させるということです。仏堂、仏像、仏具、経文に至るまで全てを破壊するか埋めよという藩令で、仏門の人は還俗しないと財産没収にするという厳しい命令で藩内全ての寺院(17ヶ寺)が廃寺に追いやられてしまいました。これはその当時廃仏毀釈を勧める平田派国学者の門人が苗木藩の役人に数多くいたからだそうです。全国でもあちこちでその動きがありましたが、政府はそこまで考えていないと説明したり、人々の猛反対にあったりして、苗木藩と薩摩藩以外は一部に留まりました。薩摩藩に至っては1,066ヶ寺全てが廃寺になりました。そのため鹿児島には仏教に関する国宝はおろか重要文化財も一切無いそうです。現在はかなり復活したようですが、ホトカミさんにはトップ100の内、寺院は3つしか載っていません。
この廃仏毀釈の厳しさを物語るあるものを紹介します。
それは村役場の前にあります。
南無阿弥陀仏と書かれています。よく見ると、
真ん中に亀裂が入っています。横から見ると、
横にも亀裂があります。
四つ割の南無阿弥陀仏碑と呼ばれています。
説明板を読んでいただければその意味がわかると思います。自分で造ったものを自分自身で壊さなければならないとは苦痛以外の何ものでもないでしょう。石工としての意地、仏の顔を踏みにじる行為、粉々に砕けという命令、色々葛藤があったと思います。そのせめぎ合いの結果、彼が下した結論が四分割。後世に期するものがあったのでしょう。65年後にようやく彼の思いが実りました。村の文化財第1号だそうです。
重い話ですみませんでした。そろそろ神田神社の紹介に移ります。こちらは社号標です。先程の石碑から30m位の道路沿いにあります。
この村には神社は6社あります。つちのこ神社も含めてです。この神田神社がメインになります。江戸時代までは常楽寺と並んであったということになりますね。
一の鳥居です。ここから裏山が始まります。
橋を渡ります。
長ーい石段を登らねばなりません。
左に手水舎がありました。
その左には明らかに緩やかなまわり道があります。一瞬迷いましたが、石工の苦労を考えるとここで楽をしてはいけないと思い、石段を選択しました😤
石段は117段もありました🥵 二の鳥居がありました。その先にもちょっと石段があります。
今度は三の鳥居です。その上に拝殿が見えます。
拝殿の中です。
こちらでお参りです🙏
この神社は廃仏毀釈の恩恵に預かりました。創建は古く、養老2年(718年)です。その後衰退と再建が繰り返され、途中白山妙大権現というお寺みたいな名前に改称されました。明治の神仏分離令で元の神田神社に戻りました。しかも式内社だったということがわかり、改宗させられた人も有難がったそうです。今だにお寺がないのは需要がないからだそうです。葬式も神葬でできるので不便はないそうです。お盆もあるしお墓参りも普通にしているようです。それはそれでいいと思います。
社務所がありましたが無人でした。
帰りは足が笑いそうだったので、脇のまわり道で降りました。(情けない😔)
帰る途中の川の横にお地蔵様を発見しました。昭和の銘が入っていたので比較的新しいです。仏様も大切にされているのだなと温かな気持ちになりました😄 ありがとうございました。
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