【 現在の寺町の状況 】
現在、四倉町西四丁目と呼ばれる地域は、古くから「寺町」と呼ばれており、地元の人々は今でも寺町と呼んでいます。
寺町という俗称は、その周辺に宝泉院、真福寺、妙源寺などの他の寺が建っていたことに由来しています。
【 寺の衰退と姿消 】
明治初年(1868年)に神仏分離令が出されて以降、寺院は急速に衰退し、民心も離れていきました。
いくつかの寺は廃寺になったり、火災に遭ったり(真福寺)するなどして、最終的に四つの寺は姿を消しました。
また、小寺山観音堂も昭和に入るとさらに荒れ果て、昭和8年(1933年)になって如来寺の住職である若松源俊和尚や片寄氏らが改築を願い、御本尊と棟札を堂内に納めました。
しかし、戦後の信仰心の低下により、御本尊の行方すらもわからなくなってしまいました。
【 地元の活動と新たな勧請 】
このような状況に憂慮した地元の佐藤氏らは、昭和53年(1978年)にお堂を改築しました。
別当寺である如来寺の保存文書に基づき、古くからの本尊である正観音を勧請し、開眼供養を行った後、須弥座の奥深くに納めました。
【 正観音の御利益と別当寺の境内にある石像 】
境内に掲げられた由緒によれば、「当観音の御利益は、東奥州の四倉湾を輝かせて衆生に対し慈悲深く霊験豊かであり、困難に立ち向かう者の苦難を払い、温かく救いの手を差し伸べる」と述べられています。
なお、別当寺である如来寺の境内にも石像の正観音が祀られていますが、これは昭和47年(1972年)に前住職夫人が建立したものです。
一般的には「聖観音」と書かれますが、札書29番の場合は正観音と書きます。
聖でも正でも観音の本意は同じで、変化しない観世音菩薩を指すものです。