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えんのうじ|浄土宗

圓應寺の御由緒・歴史
福岡県 大濠公園駅

ご本尊阿弥陀如来,観世音菩薩,大勢至菩薩,弁財天,大黒天
ご由緒

慶長7年(1602)4月、福岡藩祖黒田如水(黒田官兵衛孝高)の正室照福院殿(光姫)は慶長7年4月、黒田家の菩提寺として息子長政が治める福岡城と次男熊之助が亡くなった玄界灘がよく見渡せる大手門前に官兵衛と縁の深い真譽上人見道大和尚を招き開山。黒田家の菩提寺とした。

「圓應寺代々略伝」によれば最愛の夫官兵衛如水が亡くなり光姫は出家して照福院殿となり、先祖、敵味方の区別なく御霊の追善供養に益々励まれ、一族、福岡藩有縁無縁の繁栄を祈願していた。
照福院殿が亡くなり、圓應寺は福岡を見守り照らすという夫人の思いを忘れることのないよう「照福山」を追号して「照福山顕光院圓應寺」と称す。

大手門前から海岸までの広大な寺領を持つ屈指の威容を誇る名刹、筑前国の中本山触頭として知られ、戦前までは照福院殿の墓碑、遺髪はもとより如水公をはじめとする黒田家由縁の墓碑は福岡大空襲で瓦礫となり、1980年(昭和55年)に照福院殿の墓碑は再建立。題字は第25-28代福岡市長進藤一馬の書。

黒田六代藩主・継高息女厚姫(阿津姫)の墓、玄洋社頭山満翁ほか累代の墓、今様黒田節の作詞者として知られた国学者二川相近の墓がある。黒田二十四騎では野口左助一成、桐山丹波守、久野四兵衛重勝、小河伝右衛門信章の菩提寺である。また黒田家当主ゆかりの夫人・息女のほか二十四騎の夫人・息女、富禄武家の墓が多くある。

堂祠とともに空襲から奇跡的にも焼失を免れた、天台宗の開祖である伝教大師(最澄)の彫刻とされる大黒天像とともに、真言宗の開祖である弘法大師(空海)の作といわれ、護摩の灰で練った弁財天像がある。像の裏面には空海の掌形が残っている。毎年七月七日に大祭が行われる。福岡大空襲の簀子地区戦災者を葬る無縁佛地蔵尊もある。

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