かねがさきぐう
金崎宮へのアクセス・駐車場
近くの駅 | ◼︎JR北陸本線 ◼︎JR小浜線 ◼︎JR小浜線 Googleマップ等で出発地からのアクセスをご確認ください。 情報提供: HeartRails Express |
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参拝時間 | 参拝/24時間 |
電話番号 | 0770-22-0938 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
メールアドレス | hanakae@rm.rcn.ne.jp |
ホームページ | http://kanegasakigu.jp |
駐車場に関する投稿
JRの車両基地のそばにあります。手前にはお寺があり、長い階段を上がっていった先にあります。
宮司さんと30分ほど話し込みましたが、暫くの間は管理をする人が誰もおらず荒れ放題だったそうです。今ではその当時を全く想像できないくらいに立派になっています。
御朱印可能 駐車場あり
【越前國 古社巡り】
金崎宮(かねがさきぐう)は、福井県敦賀市金ケ崎町にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。祭神は恒良親王、尊良親王。建武中興十五社の1社。
明治時代中期の1890年、建武の新政期に足利尊氏と後醍醐天皇との対立の中、尊氏の軍勢との戦いで、金ケ崎城において自害した後醍醐天皇の子・尊良親王を祀るために創建された。1892年には恒良親王が合祀され、翌1893年には現在地に社殿が竣工し遷座した。
建武の新政期1336年に足利尊氏と後醍醐天皇の戦い(建武の乱)が発生し、尊氏が京都に迫ると、後醍醐天皇の子で皇太子であった恒良親王と異母兄の尊良親王は、新田義貞、氣比神宮の大宮司に奉じられ、北陸統治を名目に越前國金ケ崎城へ下向した。翌1337年に足利方の高師泰、斯波高経率いる軍勢により金ケ崎城は落城(金ケ崎の戦い)、新田貞義は脱出するが、恒良親王と尊良親王は自害した。
なお、1897年に創建された境内摂社の絹掛神社には、恒良親王と尊良親王を支え、金ケ崎城の戦いで命を落とした藤原行房卿、新田義顕卿、気比氏治命、気比斎晴命、瓜生保命、瓜生義鑑命、里見時成命、里見義氏命 、由良具滋命、長浜顕寛命、武田与一命などの将士が祀られている。
当宮は、JR北陸本線・敦賀駅の北方2kmの敦賀港そば、天筒山の西麓にある。境内入口には高野山真言宗の金前寺があり、金ケ崎城址駐車場との間を進むと、敦賀市内を見渡せる階段があり、その上に社殿等がある。境内は割と広く、小山の森の中にあるだけあって空気が清々しい。境内最奥(西側)に本宮社殿と摂社・絹掛神社の社殿が並んで建っている。
今回は、建武の中興十五社の1社、旧官幣中社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、雨降りのあいにくの天気であったが、自分以外にも参拝者をぱらぱら見掛けた。
境内の南東方にある<社号標>。写真右側の建物は<金前寺>。
ここから100mほど進んだ右手に境内入口がある。
階段下の境内入口。
階段を少し登った右手にある<愛宕神社>。
鳥居をくぐって急な階段を登ったところにある<愛宕神社>の社殿。
愛宕神社からの眺め。見えるのは敦賀市内。
参道の階段を登り切ったところにある<一の鳥居>。
参道の右手の<社務所・授与所>。御朱印はこちら。
やがて参道正面に現れる<二の鳥居>。ここからが社殿を含む神域。
二の鳥居手前右手にある<手水舎>。
手水舎の<手水鉢>。お花やビー玉ではなく、カラーの器が入れてある。これは面白い。(o^―^o)
二の鳥居左側の<狛犬>。
二の鳥居右側の<狛犬>。
二の鳥居をくぐってすぐの位置にある<拝殿>。
拝殿に向かって右手にある<朝倉神社>。
拝殿の右側の建物。臨時の授与所かな。
拝殿の後ろ側に廻り込む。
本殿前の<中門>。
中門から<本殿>を望む。
中門から振り返ると<拝殿>。
中門の左手から<本殿>を望む。
中門の左手にある<絹掛神社>。
絹掛神社には、金崎宮とは別途独立した鳥居と社号標がある。
最後に、社務所前の広場から見た景色。敦賀市内が広く見渡せる。(^▽^)/
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