めいせきじ
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明石寺ではいただけません
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明石寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2024年08月12日(月)
参拝:2024年7月吉日
1泊2日四国八十八か所巡り。1日目の3寺院目です。
仏木寺からは離れていて 涼しい車でのんびりドライブでした。
街から山に入っていった所にありました。登山ではなく 山道を少し歩くとお寺に着きました。
階段を上がると手水があり 右手に納経所があります。
正面に仁王門があって くぐると本堂がどんと構えています。
まず仁王門というイメージだったので 少し変わっているのかなとも思いました。
本堂の拝所の天井が素敵です。少し古いと思いますが 絵馬が天井絵として飾られています。
建物が古くて渋くて素敵です。
本堂の斜め向かいに鐘楼 その前に大師堂があります。どちらも古い建物で素敵です。
山奥ではないですが山寺ですから 木の傷みも早いのだろうと思います。
古い木材が醸し出す雰囲気って素敵すぎます。
参拝者が多く がんばってみたものの映り込みが避けられないほどいらっしゃいました。
山号は源光山 院号は円手院 宗旨は天台寺門宗 ご本尊は千手観世音菩薩 創建年は(伝)6世紀 開基は(伝)正澄上人です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん ばざらたらま きりく そわか
ご詠歌:聞くならく千手(せんじゅ)の誓いふしぎには 大盤石(だいばんじゃく)もかろくあげ石
でした。
由緒については
『由緒覚書(1783年記)』によれば 6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建した。
天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として その後 荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。
『明石寺尊像再興勧進状(1689年記)』では観音像安置と熊野権現勧請は天平6年(734年)十二坊成立は弘仁13年(822年)となり 『宇和旧記(1681年記)』では熊野十二社権現の勧請は承和3年(836年)となっている。
しかし 現存の本尊千手観音は平安末期の作であることから 十二社権現の勧請も同時期で本地仏として造られた可能性もある。
とありました。
仏木寺からは離れていて 涼しい車でのんびりドライブでした。
街から山に入っていった所にありました。登山ではなく 山道を少し歩くとお寺に着きました。
階段を上がると手水があり 右手に納経所があります。
正面に仁王門があって くぐると本堂がどんと構えています。
まず仁王門というイメージだったので 少し変わっているのかなとも思いました。
本堂の拝所の天井が素敵です。少し古いと思いますが 絵馬が天井絵として飾られています。
建物が古くて渋くて素敵です。
本堂の斜め向かいに鐘楼 その前に大師堂があります。どちらも古い建物で素敵です。
山奥ではないですが山寺ですから 木の傷みも早いのだろうと思います。
古い木材が醸し出す雰囲気って素敵すぎます。
参拝者が多く がんばってみたものの映り込みが避けられないほどいらっしゃいました。
山号は源光山 院号は円手院 宗旨は天台寺門宗 ご本尊は千手観世音菩薩 創建年は(伝)6世紀 開基は(伝)正澄上人です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん ばざらたらま きりく そわか
ご詠歌:聞くならく千手(せんじゅ)の誓いふしぎには 大盤石(だいばんじゃく)もかろくあげ石
でした。
由緒については
『由緒覚書(1783年記)』によれば 6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建した。
天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として その後 荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。
『明石寺尊像再興勧進状(1689年記)』では観音像安置と熊野権現勧請は天平6年(734年)十二坊成立は弘仁13年(822年)となり 『宇和旧記(1681年記)』では熊野十二社権現の勧請は承和3年(836年)となっている。
しかし 現存の本尊千手観音は平安末期の作であることから 十二社権現の勧請も同時期で本地仏として造られた可能性もある。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2021投稿
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