きちじょうじ
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吉祥寺ではいただけません
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吉祥寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年08月17日(土)
参拝:2024年7月吉日
1泊2日四国八十八か所巡り。2日目の8寺院目です。
横峰寺から下りてきて とにかく一番近いお寺にと思ってお参りしました。
なにせ時間があまりなかったもので。
街中のお寺 車でささっと巡れるお寺 本当にほっとしました。
普段ならこんな気持ちにはならないのでしょうが さすがにこの日だけは違いました。
少し離れた駐車場に車を停め 立派な山門まで2分ほど歩きました。
境内は狭くはないのですが お庭は広くなかったですかね。
大師堂も本堂も すぐお勤めできますよという感じで すごくすっきり片付けられていて ご住職のお気持ちが伝わってきます。
成就石は 本来は本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き 石に開いてある穴に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わるそうですが 金剛杖ないので手を合わせてみました。御利益あるかな?
山号は密教山 院号は胎蔵院 宗旨宗派は真言宗東寺派 ご本尊は毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏) 創建年は(伝)弘仁年間(810年 – 823年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん べいしら まんだや そわか
ご詠歌:身の中(うち)の悪(あ)しき悲報を打ちすてて みな吉祥(きちじょう)を 望み祈れよ
でした。
由緒については
寺伝によれば 弘仁年間(810年 – 823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み 安置したのが起源といわれる。
そのころの寺は 現在地より南東にあたる坂元川谷間の山中の現在は吉祥寺藪と呼ばれている箇所にあり 塔頭を21坊も有するようになっていたが 豊臣秀吉の四国征伐の際 天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき その山中にあった当寺も兵に放火され 全山焼失した。
本尊は助けだされ麓の大師堂のあったところに移されていたが 万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)と合併して現在の地に再建された。
とありました。
横峰寺から下りてきて とにかく一番近いお寺にと思ってお参りしました。
なにせ時間があまりなかったもので。
街中のお寺 車でささっと巡れるお寺 本当にほっとしました。
普段ならこんな気持ちにはならないのでしょうが さすがにこの日だけは違いました。
少し離れた駐車場に車を停め 立派な山門まで2分ほど歩きました。
境内は狭くはないのですが お庭は広くなかったですかね。
大師堂も本堂も すぐお勤めできますよという感じで すごくすっきり片付けられていて ご住職のお気持ちが伝わってきます。
成就石は 本来は本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き 石に開いてある穴に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わるそうですが 金剛杖ないので手を合わせてみました。御利益あるかな?
山号は密教山 院号は胎蔵院 宗旨宗派は真言宗東寺派 ご本尊は毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏) 創建年は(伝)弘仁年間(810年 – 823年) 開基は(伝)空海(弘法大師)です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん べいしら まんだや そわか
ご詠歌:身の中(うち)の悪(あ)しき悲報を打ちすてて みな吉祥(きちじょう)を 望み祈れよ
でした。
由緒については
寺伝によれば 弘仁年間(810年 – 823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み 安置したのが起源といわれる。
そのころの寺は 現在地より南東にあたる坂元川谷間の山中の現在は吉祥寺藪と呼ばれている箇所にあり 塔頭を21坊も有するようになっていたが 豊臣秀吉の四国征伐の際 天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき その山中にあった当寺も兵に放火され 全山焼失した。
本尊は助けだされ麓の大師堂のあったところに移されていたが 万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)と合併して現在の地に再建された。
とありました。
すてき
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