はんたじ
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繁多寺ではいただけません
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繁多寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年08月14日(水)
参拝:2024年7月吉日
1泊2日四国八十八か所巡り。2日目の3寺院目です。
浄土寺から車で10分かかりませんでした。近いって嬉しいです。
住宅街の外れ 浄水場?の横にありました。
こちらも山門すぐの所に駐車場があり 有難いです。
山門をくぐると少し広くなった場所があり そちらに藤棚がありました。5月末ぐらいだときれいなんでしょうね。
本堂手前に鳥居が見えました。境内社?どうしても鳥居を見つけると神社と思う私ですが こちらは歓喜天でした。まぁ神といえば神ですが マップではお寺マークでした。
どう区別すればいいのか 分かりませんが 紙垂(神社の注連縄の白いひらひら紙)がなかったのでお堂かなと。今までもずっと悩んできたので 投稿を間違えているかもしれません。
こちらのお寺も建物の内陣を見て すぐにでもお勤めできます感があり すっきり整えられているのが素敵だと思いました。こういうのはご住職の思いの表れなのかなと思います。
大師堂には千羽鶴が下がっていました。そういえば他のお寺でも大師堂に千羽鶴を見かけたことがあります。何か謂れなどあるのでしょうか。誰か教えてくださいな。
山号は東山 院号は瑠璃光院 宗旨宗派は真言宗豊山派 ご本尊は薬師如来 創建年は(伝)天平勝宝年間(749年 – 756年) 開基は(伝)行基です。
ご真言ご詠歌は
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
でした。
由緒については
寺伝によれば 天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し 孝謙天皇の勅願所となったという。
その際行基が坐高三尺の如来像を彫り 本尊として 光明寺と号したが 弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号 寺号である東山繁多寺に改称したという。
一時後衰退するが 源頼義により再興され 弘安2年(1279年)には後宇多天皇のために聞月上人が 祈祷を行なっている。
また 一遍上人も当寺で学問修行したと伝えられる。
上人は後に「捨聖」として遊行し 正応元年(1288年)亡き父である如仏を偲び三部経を奉納している。
応永元年(1394年)には京都泉涌寺26世快翁師が後小松天皇の命を受け繁多寺第7世の住職に就き 以降天和年間(1681年 – 1684年)の寵湖など高僧が相継いで住職となるが 寵湖は徳川家の帰依を得ることとなり 4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天を祀られることとなった。
将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。
とありました。
浄土寺から車で10分かかりませんでした。近いって嬉しいです。
住宅街の外れ 浄水場?の横にありました。
こちらも山門すぐの所に駐車場があり 有難いです。
山門をくぐると少し広くなった場所があり そちらに藤棚がありました。5月末ぐらいだときれいなんでしょうね。
本堂手前に鳥居が見えました。境内社?どうしても鳥居を見つけると神社と思う私ですが こちらは歓喜天でした。まぁ神といえば神ですが マップではお寺マークでした。
どう区別すればいいのか 分かりませんが 紙垂(神社の注連縄の白いひらひら紙)がなかったのでお堂かなと。今までもずっと悩んできたので 投稿を間違えているかもしれません。
こちらのお寺も建物の内陣を見て すぐにでもお勤めできます感があり すっきり整えられているのが素敵だと思いました。こういうのはご住職の思いの表れなのかなと思います。
大師堂には千羽鶴が下がっていました。そういえば他のお寺でも大師堂に千羽鶴を見かけたことがあります。何か謂れなどあるのでしょうか。誰か教えてくださいな。
山号は東山 院号は瑠璃光院 宗旨宗派は真言宗豊山派 ご本尊は薬師如来 創建年は(伝)天平勝宝年間(749年 – 756年) 開基は(伝)行基です。
ご真言ご詠歌は
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
でした。
由緒については
寺伝によれば 天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し 孝謙天皇の勅願所となったという。
その際行基が坐高三尺の如来像を彫り 本尊として 光明寺と号したが 弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号 寺号である東山繁多寺に改称したという。
一時後衰退するが 源頼義により再興され 弘安2年(1279年)には後宇多天皇のために聞月上人が 祈祷を行なっている。
また 一遍上人も当寺で学問修行したと伝えられる。
上人は後に「捨聖」として遊行し 正応元年(1288年)亡き父である如仏を偲び三部経を奉納している。
応永元年(1394年)には京都泉涌寺26世快翁師が後小松天皇の命を受け繁多寺第7世の住職に就き 以降天和年間(1681年 – 1684年)の寵湖など高僧が相継いで住職となるが 寵湖は徳川家の帰依を得ることとなり 4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天を祀られることとなった。
将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。
とありました。
すてき
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