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雨城八幡神社(久留里城址)ではいただけません
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うじょうはちまんじんじゃ

雨城八幡神社(久留里城址)
千葉県 久留里駅

御朱印について御朱印
あり

御朱印はないが久留里城の御城印はあるとのこと

限定
-
郵送対応
あり

https://www.kimitsu-kankou.com/2022/04/19/sample-…

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御朱印帳
-
パーキング
駐車場
-

雨城八幡神社(久留里城址)について

里見氏の本拠地であった久留里城内にある神社。
神社自体の由緒は不明だが、城の守護としていずれかの時代に建てられたものと思われる。

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くし
くし
2025年01月29日(水)
1576投稿

前回の浮島神社でちょっとだけ触れた、房総旅行中に寄ったお城ですが、当時の思い出を懐かしみながら確認したところ、実は「大多喜城」ではなくて、里見氏の本拠地だった「久留里城」というお城でした😅🏯

そこでこの久留里城について調べてみたところ・・・なん
と城中にホトカミに未登録の神社が一つあるじゃないすか💡⛩️
そこで、これ幸い✨と、これにかこつけて新規登録+投稿することにしました✏️w
・・・まぁ神社自体の写真はないのですが(^^; 小社なうえやや目立たない所にあり、このまま埋もれさせてしまうのも忍びないので敢えて投稿します👍(ということにしといてくださいませ😅w)

里見氏の本拠地というだけでも歴史・戦国ヲタにとってはなかなかのご馳走ですが🍖 さらに調べてみたところ「将門伝説+羽衣伝説」なんてのも出てきて、民俗・伝承ヲタにとっても大変美味しい城・神社でした🏯⛩️www

「濃溝の滝」も近くに山神社・愛宕神社といった無人社があり、なんとかこれにかこつけて紹介できないかと検討したのですが・・・こちらはやや離れてて、さすがに神社自体の写真が一枚でもないとおしかり受けそうなので断念💨www

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)

久留里城
小さいながらも復元天守閣のあるお城でした🏯

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)

・・・しかし、今に比べると写真の撮り方がヘタ😵
まぁ携帯カメラなので良い機材とか使ってるワケじゃないけど、せめて樹木に被らないようにとか構図はもうちょいなんとかならんかったのか😓

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)

城内の写真も一枚だけあったんだけど、なぜか何の変哲もない窓とか写してたり💧w

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)

城中にある「お玉ヶ池」
里見義堯の家臣の兵馬という若武者と、小川秀政の娘のお玉というお姫様の悲恋物語が伝わってます🎎

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)

お城から撮った風景写真が出てきたので追加

雨城八幡神社(久留里城址)(千葉県)
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名称雨城八幡神社(久留里城址)
読み方うじょうはちまんじんじゃ
御朱印あり

限定御朱印なし
ホームページhttps://www.city.kimitsu.lg.jp/site/kanko/491.html

詳細情報

ご祭神《主》八幡大神
創建時代天文4年(1535年)以降
創始者里見義堯(推定)
ご由緒

雨城八幡神社自体の縁起・由緒は不明だが、久留里城の歴史のいずこかで城の守護として建てられたものと思われる。
城の二の丸の薬師曲輪、久留里城址資料館の裏に鎮座。

【久留里城築城伝説】
伝承では平将門の三男 東少輔頼胤が築城したとされ以下のような伝説が伝わっている。
ある日、将門が面賀池というところに出向いたところ、河岸に輝くばかりの美女がおり、ふと傍らの一木を見れば美しく瑠璃色に輝く衣が枝にかかっていた。天女に違いないと思った将門は衣を手に取り女に声を掛けたところ、女性はりんりんたる声で「自分はまさしく天女であり羽衣を返して欲しい」と将門に哀願した。 しかし女性の美しさに魅せられてしまった将門は、衣を返さず女を無理やり連れ帰ってしまう。
女は仕方なく将門の館で月日を送り、ついには将門の妻となって十年のうちに三人の子を為した。このうちの三男がのちに久留里城を創建する頼胤であるという。
ある日、女が将門に「長く下界に暮らしたので、一目だけでも懐かしい故郷が見たい」と懇願し、将門が羽衣を渡すと、女は羽衣を纏い忽ち天へと帰ってしまった。将門は驚き呆れやがて暫し別れを悲しんで咽び泣いたという。
この天女は北斗七星のなかの劍星であり。将門はかの天女を妙見大菩薩として下総・上総の六ヶ所に祀ったという。
ある時、三男東頼胤はこの六ヶ所の妙見宮の一つ、浦田細田の妙見に参詣し、城郭のことを祈ったところ「当地に城を構え、名を久留里といふべし」と妙見大菩薩の夢のお告げがあり、久留里の城を築城した。
城の完成後「3日に一度、21回雨が降った」または「この山にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見え、城の姿が隠し覆われ敵の攻撃を受けにくかった」ということから「雨城」と呼ばれるようになったという。

【史実での久留里城】
上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に現在地よりやや北に「古久留里城」を築城したといわれる。
戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じ、里見氏が久留里城を本拠地として房総の覇者となる。
天文4年(1535年)里見義堯が、古久留里城(上の城)が手狭だったため、新たに現在の久留里城を築く。
江戸時代は松平(大須賀)氏→土屋氏→黒田氏の居城となり、明治5年の廃城まで続いた。

体験博物館武将・サムライ伝説

Wikipediaからの引用

概要
久留里城(くるりじょう)は、千葉県君津市久留里付近にあった日本の城。別名雨城・霧降城・浦田城とも呼ばれる。
歴史
沿革[編集] 久留里城址資料館前(二の丸)に立つ新井白石像 - 2012年 古久留里城[編集] 平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない。 上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。 戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた(里見成義がここを開城させたとも、里見義堯が武田一族であった前城主武田真勝に城を譲らせたともいう)。 久留里城[編集] 天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の...Wikipediaで続きを読む
アクセス
アクセス[編集] 最寄駅[編集] 「久留里駅」(JR久留里線) 最寄バス停留所[編集] 「久留里城三の丸跡」 高速バス【アクシー号】木更津金田BT・東京駅行 ◆木更津金田BTで羽田空港行/成田空港行高速バスに乗り換えができる。 高速バス【カピーナ号】千葉駅行、安房鴨川駅(亀田病院)行
引用元情報久留里城」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E4%B9%85%E7%95%99%E9%87%8C%E5%9F%8E&oldid=98658379
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