ちばじんじゃ
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楽しみ方千葉神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年07月19日(土) 01時52分49秒
参拝:2023年9月吉日
過去の参拝記録です。この日近場で用事があり、終了後の夕刻に足を伸ばしました。千葉神社、主祭神の『妙見様(みょうけんさま)』とも呼ばれる『北辰妙見尊星王』は、人間に起こりうる病気・事故・怪我などの「厄(やく)」と呼ばれる人間の悪い星(=悪い運命)を取り除き 、善い星(=善い運命)へと導いていただけるとされています。
(千葉神社HPより)
平安末期、関東南部に大きな勢力を持っていた平良文を祖とする千葉氏、一族郎党の守護神として妙見様に熱烈な信仰を捧げて来ました。その後、千葉氏は現在の千葉エリアに根を張り、それまで惣領の住む城内でお祀りされていた妙見様の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺にお遷しし、以前からお祀りされていた御分霊と合祀してお祀りすることとなりました。
千葉氏は、源頼朝が平家打倒の為挙兵した際に大いに頼りとした豪族。頼朝自身、この妙見神を篤く敬い、平家打倒の願を掛けて実現した経緯があります。同寺は徳川家康からも篤く崇敬を受け、歴代徳川将軍より数々の神領・特権を得ています。
明治の世になり、明治2年の「神仏分離令」が契機となり、「千葉神社」と改称されて現在に至っています。
千葉氏は妙見神を熱烈に信仰し、この千葉の地の統治に成功しました。「道教・陰陽道や易学・九星気学・風水学の根幹となる特殊神であり、あらゆる守護能力を発揮する神様」として庶民間に広く尊崇されていた妙見様。平安末期、争いの絶えなかった坂東(関東)の地で、千葉氏は世の理を明らかにする存在としての妙見神を守護神とし、その力を持って自らこの地を統べようとする姿勢を領民に対し示そうとしたのではないか。(私見です。)
千葉氏を大いに頼りにした源頼朝、後北条氏滅亡後に関東入りした徳川家康も、その千葉氏の「セルフプロデュース力(?)」に一目置き、参考にすらしていたのではないか。明治に至るまで、歴代将軍から厚遇を得て来たのには、やはり理由があったのでしょう。
(千葉神社HPより)
平安末期、関東南部に大きな勢力を持っていた平良文を祖とする千葉氏、一族郎党の守護神として妙見様に熱烈な信仰を捧げて来ました。その後、千葉氏は現在の千葉エリアに根を張り、それまで惣領の住む城内でお祀りされていた妙見様の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺にお遷しし、以前からお祀りされていた御分霊と合祀してお祀りすることとなりました。
千葉氏は、源頼朝が平家打倒の為挙兵した際に大いに頼りとした豪族。頼朝自身、この妙見神を篤く敬い、平家打倒の願を掛けて実現した経緯があります。同寺は徳川家康からも篤く崇敬を受け、歴代徳川将軍より数々の神領・特権を得ています。
明治の世になり、明治2年の「神仏分離令」が契機となり、「千葉神社」と改称されて現在に至っています。
千葉氏は妙見神を熱烈に信仰し、この千葉の地の統治に成功しました。「道教・陰陽道や易学・九星気学・風水学の根幹となる特殊神であり、あらゆる守護能力を発揮する神様」として庶民間に広く尊崇されていた妙見様。平安末期、争いの絶えなかった坂東(関東)の地で、千葉氏は世の理を明らかにする存在としての妙見神を守護神とし、その力を持って自らこの地を統べようとする姿勢を領民に対し示そうとしたのではないか。(私見です。)
千葉氏を大いに頼りにした源頼朝、後北条氏滅亡後に関東入りした徳川家康も、その千葉氏の「セルフプロデュース力(?)」に一目置き、参考にすらしていたのではないか。明治に至るまで、歴代将軍から厚遇を得て来たのには、やはり理由があったのでしょう。
すてき
投稿者のプロフィール

くろぶつ93投稿
千葉県在住、男性。 若い頃から歴史好きで、旅先や近場のお出掛けの際にはその土地の神社仏閣にお参りするのが楽しみでした。その他では古城や城下町・武家屋敷巡りなど。 しかし、名城巡りのスタンプ帳や...もっと読む
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