曹洞宗藤谷山
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館山市上真倉にある曹洞宗のお寺。
豊臣秀吉や徳川家康に仕え安房国を治めた戦国大名里見義康の菩提寺。初代住職は義康の弟玉峯。
参道には海軍将校が植えた木が並んでいます。館山航空隊の縁からでしょうか。本堂前には立派な仁王像。御線香は一束50円であげられます。境内の奥には里見義康公の御墓。本堂参拝後にこちらにも手を合わせました。他にも縄文時代の遺跡が発掘されていてとても歴史を感じられるお寺です。
人が居なかったので電話で伺うと住職さんは外出中だったのですが私が今お寺にいることを伝えると車で戻ってきて御朱印を書いて頂きました。本当にありがとうございました。館山駅近くの震災観音堂は慈恩院さんで管理されていてそちらの御朱印も頂きました。
寺院前
参道
本堂
六地蔵
六地蔵手水
オハツキラッパイチョウ
オハツキラッパイチョウ
上藤井遺跡
由緒書
掲示板
仏像
海軍将校手植の木
境内
甲冑
阿形像
吽形像
香炉
里見義康公御墓
歴史
義康公の弟である玉峯和尚が天正9年(1581)に創建したと伝えられ、城内に祀られていた里見氏重代の持仏である千手千眼観世音菩薩および聖観世音菩薩(ともに運慶作)の両菩薩像を本尊として移し、里見城内の持仏堂としたのがはじまりであると伝えられています。
この持仏堂は天正18年(1590)義康公の館山築城竣工に当たり、館山城南面の姥塚(うばづか)の地(現在、10代忠義公および八剣士の供養墓のある所)に移され、天正19年7月、寺領として4貫800文を寄付されました。
慶長8年(1603)11月16日、義康公が31才で逝去されるや、現在地を義康公の墓所として城内の持仏堂を移築し寺院を建立、名を「籐谷山・慈恩院」として「義康公菩提寺」と定め、義康公を当山開基とされました。
秘仏として義康公が常に所持していた「捻持仏」が伝えられています。
又、里見氏研究の基礎となる「里見氏系図」、義康公自筆の寺領書など多数の古文書も伝えられています。
10代忠義公の慶長15年(1610)の里見家分限帳には「北郡(平群郡の別称)正木村12石持仏堂慈恩院分、山下郡(安房郡の別称)沼村3石持仏堂」とあり、合わせて15石の寺領が与えられていたことが知られ、寛永13年(1636)11月9日、徳川3代将軍家光公からも寺領15石の御朱印状を下付しています。また、歴代将軍からも同じ朱印状が下付されていました。
名称 | 慈恩院 |
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御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0470-23-7261 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.awa.or.jp/home/i-tohzan/ |
詳細情報
ご本尊 | 聖観世音菩薩・千手千眼観世音菩薩 |
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山号 | 藤谷山 |
宗旨・宗派 | 曹洞宗 |
創建時代 | 1581年(天正9年) |
開山・開基 | 里見義康・玉峯 |
文化財 | 慈恩院のオハツキラッパイチョウ(館山市天然記念物) |
ご由緒 | 義康公の弟である玉峯和尚が天正9年(1581)に創建したと伝えられ、城内に祀られていた里見氏重代の持仏である千手千眼観世音菩薩および聖観世音菩薩(ともに運慶作)の両菩薩像を本尊として移し、里見城内の持仏堂としたのがはじまりであると伝えられています。 この持仏堂は天正18年(1590)義康公の館山築城竣工に当たり、館山城南面の姥塚(うばづか)の地(現在、10代忠義公および八剣士の供養墓のある所)に移され、天正19年7月、寺領として4貫800文を寄付されました。
10代忠義公の慶長15年(1610)の里見家分限帳には「北郡(平群郡の別称)正木村12石持仏堂慈恩院分、山下郡(安房郡の別称)沼村3石持仏堂」とあり、合わせて15石の寺領が与えられていたことが知られ、寛永13年(1636)11月9日、徳川3代将軍家光公からも寺領15石の御朱印状を下付しています。また、歴代将軍からも同じ朱印状が下付されていました。 |
体験 | 御朱印武将・サムライ有名人のお墓 |
供養 | 一般墓 |
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