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うとうじんじゃ

善知鳥神社の境内

公式青森県 青森駅

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本殿四つ棟神明造

境内詳細情報

謡曲善知鳥旧跡 

謡曲 善知鳥(宝生流) 世阿弥の作

諸国一見の僧が立山禅定を終へ、下山してそれから奥へ下らうとしてゐると、物凄しげなる一人の老人があらはれ出でて僧を坪びとめ、 奥へ下らるるならば外ヶ浜にて猟師の家を尋ね、去年の秋亡くなった我に蓑笠を手向けてくれよと、その妻子に言傳けを頼むのであった。 僧がそのしるしがなくてはといへば、今はの時まで此尉が着てゐたといふ麻布の袖を解いて僧に渡し、僧の立ち去るあとを見送りつつ、 姿を消したのである。僧は不審に思ひながらも、外ヶ浜に行きてその妻子を尋ね、ありし世の蓑笠を手向けてくれと言傳をなし、しるし の袖を渡したところ、その妻子の喜びは一方でなく、涙ながらに亡き夫、なき父を慕ひつつ、蓑笠を手向けて偲べば、僧は経を誦して懇 に弔ふのであった。ここに亡霊は御法の聲に引かれてあらはれ出て、いたく妻子をなつかしむ様子であったが、在世に犯した罪障に隔てら れて近づけず、果ては数多く殺して来た鳥類のために責られる地獄の苦しみを目のあたりに見せ、善知鳥が鷹となり、猟師は雉子となって追 ひせめらるる様などみせ呉呉も弔ひをたのみつつ消え失せたのである。

奥州街道終点記念の碑

終点記念の碑は黒御影石でできており、揮ごうは北村知事。奥州街道は江戸時代五街道の一つで、東京日本橋が起点で終点はさまざまな説がある。江戸時代初期に著された「幕府撰慶長日本図」によると、当時津軽藩の出張機関が置かれていた青森市安方地域が終点とされているという。

松尾芭蕉句碑

1812年

碑文
名月や 鶴脛高き 遠干潟
(めいげつや つるはぎたかき とおひがた)

芭蕉は、平泉を見た後、Uターンしたが、奥の細道の本文に、「南部道遥かにみやりて死………」と書いている。 南部道は、盛岡地方へ通ずる街道で、この下りから、日田へさらに旅を続けたかった思いが伝わる。 また、細 道の紀行が終わった翌年の元禄三年に書いた「幻住庵記」に、「猶うとう啼そとの浜辺よりに、えぞが千しまをみやらむまでど、 しきりにおもひ立侍るを………」とも書いている。外が浜から北海道を見たかったのだが、同行の曾良が病弱な師の身体を思い、引き止めたのだ。

菅江真澄歌碑

1957年

謡本名 白井秀雄。30歳で故郷を出て薬草や和歌の知識を伝えながら津軽、南部、松前を旅し晩年は佐竹を中心に日記や随筆、地誌などを残した。

江戸後期の民俗学者、歌人 菅江 真澄 宝暦4年~文政12年(1754~1829年)愛知県(旧三河国)豊橋に生まれる。菅江真澄と称したのは、晩年、秋田に居住したからである。真澄が青森に訪れたのは、都合三度である。最初の天明5年(1785)8月のときは、蝦夷地(現:北海道)へ、渡るためであった。大飢饉による餓死者の無惨な姿を見て、これ以上浜路をめぐることは、自らも飢える心配があると考えて引き返した。二度目の来青は、天明8年(1788)7月である。浅虫を経て青森、三厩から蝦夷地へ渡った。この時、鳥頭神社(現:善知鳥神社)に詣でた後、古い社の後が残っているということから、二本木のある丘(現:久須志神社)を訪ねている。又、この杜を見て「青森という地名もここがもとであろう。」と「外が浜づたひ」に記録している。三度目は寛政8年(1796)で二十余日滞在。青森の各集落、社寺、山野等を歩きまわり、伝承習俗や庶民の生活を「すみかの山」に詳しく記録している。なかでも注目されてことは4月14日、石神村の小さな祠のかたわらに「文永の碑があった」と記録していることがある。真澄の歌碑は善知鳥神社境内、荒川宗全寺(曹洞宗)に建立されている。なお、享和元年(1801)秋田に赴くまで、7年余の間に津軽関係では「津軽の奥」「外浜奇勝」「津軽のをち」などの紀行を残している。

編集:善知鳥神社公式
最終更新: 2020年06月10日(水)

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