こうさんじ|天台宗|御嶽山
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駐車場 | あり |
高讃寺について
「知多三山」の一つ
知多四国の43番札所の岩屋寺、82番札所の観福寺そして61番札所の高讃寺である。
かつては七堂伽藍300坊を有する巨刹
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「知多四国八十八」第61番、
「知多西国三十三」第12番
かつて七堂伽藍300坊を有する巨刹で、岩屋寺・観福寺とともに知多三山の一つに数えられました。
1537年、織田信秀と今川義元の兵火により、堂宇の大半が失われました。
その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火があり、現在は南の坊一院を残すのみになっています。
印はセルフでした。
知多西国三十三観音巡り 第十二番札所⛩ 御嶽山 高讃寺(愛知県常滑市)
高讃寺は西阿野村字阿野峪にあり。境内千六百九十八坪、天台宗、東春日井郡野田村密蔵院の末寺たり。白鳳十二年の創建なり。天武天皇の勅願行基菩薩の開基にして古七堂伽藍三百坊の僧院あり。本宗第一の巨刹たり。天文六年織田氏今川氏と兵を交わるの時灰燼に帰す。同十二年之を再興したりと雖も、文禄年中再び兵火により天文再興の八院只僅かに”南の坊”一宇を残すのみ。長祐法印其一宇を再興し猶舊号を称す後ち木食知法和尚又再興建立せり。往古古器奮記等少なからさりしと雖も天文文禄の災害により今は只應永十二年法印智光の撰に係る一古縁起を存するのみ当時古巨刹の名残歴々地理に存し古昔境地の様見えたり。
歴史
白鳳12年(684)行基により天武天皇の勅願寺として創建。
かつては七堂伽藍を有する大寺院であった。
天文6年(1537)織田、今川の戦火に遭い堂塔末坊の大半を失う。
文禄年間(1592~1596)にも兵火で七堂伽藍三百坊といわれた巨刹は、南の坊一院を残すのみとなる。
名称 | 高讃寺 |
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読み方 | こうさんじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0569-35-3175 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
知多四国霊場 | |
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知多西国三十三所霊場 第12番 | 御詠歌: 守りたも 朝夕ならで 頼むみは あのくぼだいの ためにありける |
詳細情報
ご本尊 | 聖観世音菩薩 |
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山号 | 御嶽山 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 白鳳12年(684) |
開山・開基 | (開山)行基菩薩(開基)天武天皇 |
文化財 | 本尊「聖観世音菩薩」平安時代の作。関東地方に多いなた彫り。この辺りはでは珍しい。西限ともいわれている。(県指定文化財) |
ご由緒 | 白鳳12年(684)行基により天武天皇の勅願寺として創建。
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体験 | 御朱印札所・七福神巡り |
Wikipediaからの引用
概要 | 高讃寺(こうさんじ)は、愛知県常滑市にある天台宗の寺院。山号は御嶽山。知多西国三十三所霊場第12番・知多四国霊場第61番札所。 |
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歴史 | 由緒[編集] 白鳳12年(684年)、行基により天武天皇の勅願寺として創建されたと伝わる[1][2]。かつて七堂伽藍300坊を有する巨刹であり、岩屋寺・観福寺とともに知多三山の一つに数えられた[1]。天文6年(1537年)、織田信秀と今川義元の兵火により、堂宇の大半が失われた[2]。その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火があり、現在は南の坊一院を残すのみになっている[1][2]。仁王門の仁王像は、天文6年(1537年)の兵火から逃れるため近くの池に入れられたもので、江戸時代になってから引き上げられている[2]。 ^ a b c 『知多四国巡礼』(歴遊舎) ^ a b c d 現地...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「高讃寺」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%AB%98%E8%AE%83%E5%AF%BA&oldid=98777162 |
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