わしとりじんじゃ
和志取神社のお参りの記録一覧
三河国碧海郡の式内論社です。13代成務天皇の弟君である五十狭城入彦皇子さまを祀っており、この神社から北東方向にはこの方の御陵とされている和志山古墳があります。
《社号碑》
元々は長谷部神社という名前になった後現社名になりました。これは五十狭城入彦皇子さまの子孫である長谷部直という一族から来ています。
《由緒書き》
五十狭城入彦皇子さまは討伐のためにこの地に来てそのまま開拓のために留まりました。異母兄である倭建命さまや讃岐国造になった神櫛皇子さまなど景行天皇さまの時代は結構日本統治のために派遣しまくってたみたいですね。
《末社・神宮社》
《一の鳥居》
両部鳥居です。
《末社・社口社》
あまり見慣れない末社ですね。なんか「口」が空欄に見える…
《手水舎》
龍の彫り物がかっこいいですね。
《社務所》
氏子さんたちが会議していました。
《大日堂》
《拝殿》🙏
👁チェックポイント‼️
この神社の年にある四つの大祭では浦安の舞が奉納されているそうなのですが、この舞を矢作西小学校の児童たちが継承しているそうです。ちなみに矢作西保育園は和志山古墳のそばにあります。
《宝物殿跡》
本殿の裏手にあります。廃仏毀釈の折になくなってしまったのでしょうか?
時として式内社騒動は、地域を巻き込んでの大論争になる場合があります。どうやらこちらの神社さんもその渦中に巻き込まれちゃったみたいです。
「私共は式内社の称号をもらい受け、長谷部神社あらため和志取神社と改名いたします。今後とも式内社である岡崎市の和志取神社をよろしくお願い・・・」
「異議あり、お前の所を式内社と認めるわけにはいかにゃだよ!」
「誰だね君は!」
「誰だね、ちみわってか。そうです私共が正真正銘の式内社、和志取神社by安城市であ~る。」
「何を抜かすか、こっちは教部省の御墨付きをもらってんだ。お前のとこから、とやかく言われる筋合いは無い!」
「いいか、安城市の和志取神社は織田信長の命を受けて再建されたんだぞ!」
「ほざけほざけ!所詮は村社の遠吠え、こっちは県社なんだよ!県社。」
仏教建築のようですが?
「まあまあ、喧嘩はよしましょうよ。同じわしとり神社じゃないですか。」
「お前は誰だね?」
「私ですか、私は豊田市の鷲取神社です。」
「・・・・・・。」
さて、式内社争いはどうなったのやら?
「宝物殿跡」本殿の裏にあります。
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