さなげじんじゃ
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | あり |
猿投神社について
写真撮影は、社務所に神職さんが見えた際は一言お断りされた方が無難です。
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【三河国 式内社巡り】
猿投神社(さなげ~)は、愛知県豊田市猿投町大城にある神社。式内社で、三河国三之宮。旧社格は県社。猿投山を神体山とし、主祭神は大碓命(おおうす)、配祀神は景行天皇(第12代、主神の父)、垂仁天皇(第11代、主神の祖父)。
『日本書紀』によると、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡し美濃国に封じられたとある。779年に編纂された縁起書によると大碓命は景行天皇52年に猿投山中で毒蛇により死去し、山上に葬られたという。社伝によると、当社は仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建された。国史では『日本文徳天皇実録』の平安時代851年の条に「狭投神」の神階奉授の記載がある。また、927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「参河国 賀茂郡 猿投神社 小」に比定されている。その後、戦国時代の1534年には松平清康により攻撃され堂塔を焼失したが、梅坪城主の三宅氏や那須氏などにより再建された。1561年に織田信長が三河の高橋荘を支配下に入れると当社を保護した。明治時代に入り、近代社格制度の下、県社に列格するとともに、『延喜式神名帳』に記載のある「参河国 賀茂郡 広沢神社 小」を合祀した(現在は「広沢天神社」の名称で摂社として分祀)。
当社は、愛知環状鉄道・保見駅の北東6kmの猿投山南麓にある。境内南端の神門から古巨木が建ち並ぶ長い参道を進むとなだらかに登って行くと、広々とした社殿周りに辿り着く。社殿の構成は独特で、拝殿、四方殿、中門、本殿が縦に並び、参拝者は中門で参拝する。中門の右側には透塀が巡らされ、本殿の右側に境内社があるため、透塀には境内社の参拝所が設置されている。全体として古社、大社の雰囲気に溢れている。
今回は、三河国の式内社、三之宮、旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、多くの参拝客が訪れていた。
境内南端入口にある<総門(山門)>と<社号標>。手前は大通りの交差点。
総門の外にある<二の鳥居>。県道349号線(深見亀首線)で南西から来る場合は、この目立つ鳥居が目印。駐車場は総門の右側の道に入った先にある。
<総門>をくぐる。太くて長い参道をまっすぐ直線で進むと社殿に辿り着く。山にひっそりと佇む大社ならではの雰囲気。
参道の途中にある<御神木>。たまたまいた女性2人連れと比較すると、幹の太さが半端ないことが分かる。(o^―^o)
<御神木>全景。高さも高い。
参道右側の<神馬>。
参道右側の<手水舎>。まもなく社殿周り。この辺りから参道が緩やかに登る。
写真右奥は駐車場。
手水舎の先の<三の鳥居>。ぽつんと一軒、たこ焼き屋。(^_^;)
鳥居をくぐると、左側に立っている<社務所>。
社務所にある<授与所>。御朱印はこちら。
参道の突き当りにある<拝殿>。拝殿と言っても、賽銭箱はない。
<拝殿>を斜めから。縦に長い。その先には<四方殿>。
拝殿の右手にある<太鼓楼>。
拝殿の右側を、本殿方向に進む。
右手には<神池>。
こちらが参拝場所の<中門>。
<中門>正面。この奥が<本殿>。
<中門>の背後にある<四方殿>。神楽殿のようなものかな。
中門の左側の建物。
上部には、江戸時代末期の<親子ざる>の彫刻。
中門の並びの左端の建物は<神饌所>。右側は祈祷所入口。
神饌所の左側奥にある<厳島社>。小さな清水の滝がきれい。
つづいて、<中門>に向かって右側を見て廻る。
中門右側の<絵馬掛け>。当社の絵馬は変わっていて、<かま>の形をしている。
絵馬掛けの右側に境内社の参拝場所が5つ続く。まず一つ目は<鉾田社>の参拝場所。
二つ目は<塞神社>の参拝場所。
透塀の隙間から、<鉾田社>(左)と<塞神社>(右)の社殿。
鉾田社の左側にある本社<本殿>。
三つ目は<八柱社・八幡社>の参拝場所。
透塀の隙間から、<八柱社・八幡社>の社殿。5つ並んでいる境内社の中では一番大きい。
四つ目は<大国社>の参拝場所。
最後五つ目は<御鍬社>の参拝場所。
透塀の隙間から、<大国社>(左)と<御鍬社>(右)の社殿。
最後に、中門周辺全景。古社の風情を満喫~♪ (^▽^)/
またまた参拝登山です🙏⛰️ 今回は豊田市の猿投神社にお邪魔しました。猿投山の麓に本社があり、山中に東宮と西宮があります。総称して猿投三社大明神と呼ばれています。標高は629mもありますが、東海自然歩道のハイキングコースになっていますので大丈夫でしょう。
まずは麓の猿投神社からスタートです。ピカピカの黄色の鳥居から門が見えます。
総門です。門のすぐ前に交通量の多い道路があるため、正面から撮れませんでした😅
由緒書きです。歴史は相当古く、主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の双子の大碓命(おおうすのみこと)になっていますが、実際こちらの猿投山中で毒蛇に咬まれ亡くなったとされています。
広々とした参道です。境内には歴史を感じさせる立派な木が数多く見られました。
手水舎。柄杓ありません。
今度はピカピカのこげ茶色の鳥居です。
拝殿です。こちらの神社の建物は嘉永六年(1853)の大火によってほとんどが焼失して、その後再建されたそうです。拝殿は明治中期の再建です。
拝殿の後ろの四方殿。大火のすぐ後に再建されました。
四方殿を通して見た中門です。
中門もすぐ再建されました。こちらでお参りできるようになっています。
「猿投」とあるから猿を探したらありました🙉中門の左側に「親子ざる」。
上には親子の猿の彫刻。「猿投」の由来は諸説あるそうです。文字通り「猿を投げた」というのがあります。当時の景行天皇が悪さをした猿を伊勢の海に投げ入れた。その後その猿は改心して日本武尊の部下として活躍してその後、今の猿投山に入ったということです。ロマンがありますね。
中門の右側には摂社の数々。
それぞれ門があって、中に祠があります。全部で8ヶ所ありました。全部お参りしましたよ🙏「コロナが早く終息しますように」
本社の参拝が終わり、いよいよ登山です。神社の裏手に登山口があります。山頂まで約5km!
頑張るぞー🧗
いきなりクマ出没注意😱 そういえば出会う登山者はチリンチリンと鈴の音がしていました。都会では味わえない恐怖です。
途中までは車も通れる舗装路です。
道路横にはきれいな小川。せせらぎを聞きながら完全にピクニック気分です😘
趣のある水車。
私の好きな巨石もあちこちにあります。
登山道との分岐点がありました。迷わず左側を選びました。カッコいい(笑)
こんな道が続きます。急にえらくなりました🥵
周りは真っ直ぐな木がいっぱい。
途中の大岩展望台で一服です。あいにくの曇り空で遠くの山が霞んでいましたが、少し癒やされました。
東宮の入口にたどり着きました。
由緒書き。何と足利尊氏の名が!
見えてきました。
東宮です。ここでもお参りです。さあ、次は山頂です。
苔むした木々。いいですねえ😊
通称「カエル石」。誰かが目と口を書いたようです。
ついに山頂に到着しました! 登り始めて約2時間です。
歓迎されました(笑)
絶景を見ながらの昼食は格別です🤩 (ちょっと寒かった)
今度は西宮です。自然観察路を降りて行きます。
こちらはほとんど人が通らないのか落葉だらけです。滑ってコケないように慎重に足を進めます。
倒木の上も通らねば!
御船石。
急にきれいな石垣が・・・
西宮かなぁ?
祠がなく、円墳みたいになっています。
石段を降りたらわかりました。大碓命のお墓でした。宮内庁とあるから皇室の御墨付きなのでしょう。何せ景行天皇のご子息だから。
隣に西宮がありました。これで三役揃い踏みです。
由緒書きです。東宮と同じ位、平安時代創建です。
降りたら鳥居がありました。こちらまでは車で来れるので、大抵の人はこちらから登って行くのでしょう。
一応目的は達しましたが、天然記念物の菊石を見たくなりました。遠回りにはなりますが、下りだから大丈夫でしょう。
こんな感じでダラダラ下って行きました。
血洗の滝です。大碓命が毒蛇に咬まれた時、傷口をこの滝で洗ったとされています。
菊石にまで来ました。盗掘されないように周りが厳重に柵で囲まれています。
柵の上の有刺鉄線の間から必死こいて撮りましたが、残念ながら「菊」のようには見えません。ちょっと期待外れでした🥲
下まで降りてきたらウオーキングマップがありました。私の歩いて来たルートは一番長い14.4kmのコースでした! まだまだ若いことが証明されました。ありがとうございました。
名称 | 猿投神社 |
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読み方 | さなげじんじゃ |
通称 | 猿投さん |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
詳細情報
ご祭神 | 《主》大碓命,《配》景行天皇,垂仁天皇 |
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体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り絵馬七五三御朱印お守り重要文化財祭り |
Wikipediaからの引用
概要 | 猿投神社(さなげじんじゃ)は、愛知県豊田市にある神社。式内社、三河国三宮で、旧社格は県社。猿投山の麓に鎮座する。 |
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歴史 | 歴史[編集] 創建[編集] 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。 社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建されたという。 概史[編集] 国史の初見は、『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851年)10月7日条、従五位下の神階を授けるという記述である。『延喜式神名帳』では「参河国賀茂郡 狭投神社」と記載され、小社に列している。また、三...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「猿投神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%8C%BF%E6%8A%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=99006136 |
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