いするぎひこじんじゃ
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石動山全体が修験道の地になっていて、すこしずつ復旧のための調査や作業が行われています。
石動の読み方は「いするぎ」でも「いしどう」でもどちらでもよいそうです。一応、山の名前は読みやすいほうで「いしどうさん」と読むようです。
ちょっとした疑念ですが、神名は「伊須流岐(イスルギ)」なので「イスルギ」と読まないと整合が取れなくなるのでは??
「日本武尊」も「倭建命」も「大和」も「ヤマト」と読むことが共通土台になっています。ここで「ダイワ」と読んだりしたら、とんでもないことになるのでは??
地名とか神名とか勝手に読み方変えないほうがいいのではないでしょうか?それともちゃんと整合がとれてのことなのでしょうか?
地名のひらがな化といい、カタカナ外来語の氾濫といい、日本語自体が機能不全向かっている気がします。
#伊須流岐比古神社
ご祭神はイスルギヒコの神とイザナギの尊。石川県鹿島郡中能登町と富山県氷見市の境目にそびえる、石動(せきどう)山の頂上に鎮座する。富山県には石動(いするぎ)という地名もある。
#伊須流岐比古神
富山県民と石川県民の不仲さは、今や全国放送のバラエティ番組でネタになるほどの公知の事実だ。だがこれ、下手をすれば神代から続く因縁かもしれない。
イスルギヒコの神は現在の富山市・舟倉の女神アネクラヒメの命と将来を誓い合っていたが、能登に住むノトヒメの神にたぶらかされ、彼女と結婚。その後もアネクラヒメの命に挑発をくり返し、ついには能登と越中、双方の妖精たちまで巻き込む戦争へと発展した。騒乱はタカミムスビの尊の意を受けたオオクニヌシの神が鎮圧。イスルギヒコの神とノトヒメの神は処刑されたという。
石動山の帰属をめぐって能登と越中の間でいさかいがあり、この神話はそれを反映している、と想像するのは容易だ。が、実際に誰かがそのように主張するのは見たことがない。
なお、これはあくまで富山側の神話。ここ伊須流岐比古神社や、ノトヒメの神を祀る能登比咩神社(中能登町)では、そのような話は全く聞かない。特に能登比咩神社は、ノトヒメの神がオオクニヌシの神と結婚したとする。イスルギヒコの神を巡ってアネクラヒメの命と争った、という伝承とは両立しがたいように思う。
歴史
式内の古社で、崇神天皇6年の創建と伝え、治承4年勅使藤原家通の参向あり。歴代の勅願所にて、中世5社大権現と称して、別当360余坊、衆徒3000を擁す。中世以来、しばしば戦場となる。暦応4年足利尊氏社殿再建。天正11年朝廷の命により、羽柴秀吉再興。現本殿は承応2年前田利常の再建。明治5年に郷社。
名称 | 伊須流岐比古神社 |
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読み方 | いするぎひこじんじゃ |
通称 | 五社大権現 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
詳細情報
ご祭神 | 《合》水波能売命,《主》伊須流支比古神,伊弉諾命,《配》伊弉冊命,天目一箇命,迦具土命,素盞嗚命 |
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ご由緒 | 式内の古社で、崇神天皇6年の創建と伝え、治承4年勅使藤原家通の参向あり。歴代の勅願所にて、中世5社大権現と称して、別当360余坊、衆徒3000を擁す。中世以来、しばしば戦場となる。暦応4年足利尊氏社殿再建。天正11年朝廷の命により、羽柴秀吉再興。現本殿は承応2年前田利常の再建。明治5年に郷社。 |
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