網代旭町の寺院(檀家寺)
初めは大庚山と称したが、後に七宝山厳昌院と改め、文亀3年(1503)3月に岡本弥市郎頼久が創立したもので、天文6年(1537)に乗誉虎山和尚を招いて開山したという。
境内には網代柳姫伝説に伝わる柳姫の供養地蔵があります。
【網代柳姫伝説】
享保時代、小田原城主大久保候に一人の美貌の誉れ高い息女があった。その姫は青春時代の複雑な問題で親の許しが得られず、遂に一室に監禁されるという悲劇となった。姫は悶々と過ごし意を決して城を出ることを計った。そして城より抜け出して晴れ晴れとした広い海岸に出た。
海岸には一艘の小舟があったので、船頭に頼んで沖に出た。舟は風のまにまに網代の浦近くまで来た。船頭も行先も告げないので初めのうちは不審と思い警戒していたものの、身形の良い姿とて高貴の家の娘の気晴らしの舟遊と思い心を許し言いなりにしていた。すると突然船頭の隙を伺って海中に身を投げてとうとう再び浮き上がらなかった。
数日後、姫の死骸は網代の漁師の網に入って引き揚げられて、船持ちお寺厳昌院に手厚く葬られた。この話は当時網代村で言い伝えられ、皆一同して姫の死を嘆き哀しまれた。村人達は姫の乗った船の事を「うつろ舟」と言い伝えた。
城内では姫が失踪したと大騒ぎとなり、船頭の話によってその死を知り、愕然となり人を遣わして姫の死骸を捜し求めた。風の便りに網代に葬られた事を知ったが、勘当に等しい処置をしたものを今更城内に引き取る訳にもいかず、死骸はそのまま網代の寺に留めることにした。
小田原城主大久保候は姫の哀しい死を知りその薄命を嘆いたが、直ちに死骸を拾った漁師を招いて厚く御礼の言葉を陳べて、「欲しい物があるなら何でも望み通り叶えてやるから遠慮なく申してみよ」と申された。漁師は無欲な人で「私は何も欲しくはありません、唯一つ御願いがあります。姫の名前が柳姫と申される由、私めにその名の屋号をお許し願います」と申されましたので以来その家は柳丸という屋号を名乗るようになった。
姫の墓は厳昌院の土屋家代々の墓地内にあり、一番中央に地蔵菩薩(阿弥陀菩薩か)の立像が建立されてあり、享保七年と刻されている、それが柳姫の菩提を弔って建てられたものであると伝承されている。(網代郷土史)
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