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さいねんじ|浄土宗専称山

西念寺
東京都 四ツ谷駅

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ひでどらごん
ひでどらごん
2025年02月11日(火)
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西念寺(さいねんじ)は、東京都新宿区若葉にある浄土宗の寺院で、正式には「専称山安養院西念寺」と称する。徳川家康の重臣・服部正成(半蔵)が開基し、服部家の菩提寺として知られる。境内には服部正成をはじめ、服部一族の墓や、徳川家康の長男・信康の供養塔がある。

● 服部半蔵と西念寺の関係
服部正成は「槍の半蔵」として知られた徳川家康の忠臣で、伊賀同心を率いた武将であった。家康の長男・信康の切腹に関わる悲劇を経験し、その後出家して「西念」と号した。彼は信康の菩提を弔うため、西念寺の前身となる庵(安養院)を1593年(文禄2年)に江戸麹町清水谷に創建した。

● 移転と発展
江戸城外堀の建設に伴い、1634年(寛永11年)に現在地へ移転し、寺院として整備された。山号の「専称山」、寺名の「西念寺」は服部正成の法名「専称院殿安誉西念大禅定門」に由来する。戦後の再建を経て、現在に至る。

● 文化財と見どころ
西念寺には新宿区指定史跡がいくつか存在する。信康の供養塔は本堂裏手にあり、三葉葵紋の石扉を持つ五輪塔である。また、服部正成の墓は墓地の入り口にあり、宝篋印塔が建つ。さらに、彼が家康から拝領した槍も寺宝として保管されている。

● 西念寺周辺の歴史的背景
西念寺のある新宿区若葉は、かつて「伊賀町」と呼ばれ、徳川家に仕えた伊賀者たちが住んでいた。現在も近くの半蔵門は服部正成の名に由来し、彼の足跡が残る地域である。

西念寺(東京都)
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歴史

専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。
家康には築山午前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ、一族とし、二女がありました。
しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。
家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。
その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入りました。
1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。
1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。
しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年11月14日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり、「専称山安養院西念寺」となりました。
1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。
1945年戦火で全焼失しましたが、昭和36年11月本堂を再建しました。
(西念寺縁起より)

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西念寺の基本情報

住所東京都新宿区若葉2-9
行き方

JR中央線、東京メトロ丸ノ内線・南北線 四ツ谷駅から徒歩8分

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名称西念寺
読み方さいねんじ
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号03-3351-0662
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://www.yotsuya-sainenji.or.jp/
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詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号専称山
院号安養院
宗旨・宗派浄土宗
開山・開基開基 服部半蔵
ご由緒

専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。
家康には築山午前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ、一族とし、二女がありました。
しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。
家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。
その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入りました。
1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。
1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。
しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年11月14日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり、「専称山安養院西念寺」となりました。
1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。
1945年戦火で全焼失しましたが、昭和36年11月本堂を再建しました。
(西念寺縁起より)

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