創建年代・由緒等は不明。
社名の読みは「しゃくじ」らしい。
Google Map上の表記は「杓子」となっているがこれは境内社で、本社の方は「社氏」
ネット上でこの神社の古い御神影札を見つけたが、それを見ると白狐に乗った老爺の姿をした稲荷神で、蚕の繭柄の装束を纏っており養蚕の神として信仰されていた様子。
石打の神社は特定の小字や家筋など狭い範囲の鎮守や守護神となっていることが多いが、この神社は例外的に養蚕神としてやや広い範囲で崇められていたようで、北に約2kmほど離れた太田市の沖之郷付近にも信者がいたようである。
ただし、後述のように祭祀自体は他の石打の神社と変わらず、特定の小字が輪番制で担っていたようである。
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【境内社】
現地確認したところ、杓子稲荷の方には文字通り古いしゃもじが多数奉納されていたが、どういった風習に基づくものかは不明。
もう一社は祭神不明。神明鳥居が立っているが周辺には白狐や稲荷眷族が並べられており、神明宮か稲荷社か判断が付かない。
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【光明寺との関係】
沖之郷(太田市)に茂木嘉十という、社氏稲荷神社の熱心な信者がいた。
ある夜のこと、稲荷様が枕元に現れて「私は今、光明寺に居候しているが、なんとかして元の社に帰りたい」と告げたという。
経緯はわからないが、稲荷神社にあった稲荷様が、いつの間にか誰かの手によって光明寺に移されたらしい。
曲がりくねった細い道を教えられたとおりに辿っていくと光明寺に着いた。そしてよく調べてみたら、夢のとおりに本尊様が見つかった。
石打の人たちと相談し、元来た道を引き返して無事本尊様を社氏の社に祀り直した。その時の書類が今でも残っているという。
(広報おうらより)
※原文では、戦で寺宝や過去帳を全て焼失してしまった光明寺に奇跡的に本尊だけが残っていたという書き出しで始まっているのだが、いつの間にか社氏稲荷神社の本尊の話に変わってしまっている。
古老の聞き語りか覚書をそのまま書き起こしただけのようである。
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【合祀を拒んだ石打の神々】
大正末から昭和初期にかけて、石打には神社がたくさんあるので合祀しようという声が上がり、相談が始まった。
ところがその年の夏、石打に伝染病が蔓延し死人が出る騒ぎになり、合祀の話は立ち消えとなった。
そのため石打では元旦祭を初め、2月に社氏稲荷の初午祭り、4月に菅原神社・八王子神社・諏訪神社の春祭り、7月に八坂神社の祇園夏祭り、10月に菅原神社・八王子神社の秋祭りと、神社ごとに祭礼を行っている。
石打では個人の屋敷神や屋敷稲荷とは別に、何々家の神様という感じで特定の神社を守護神としており、小字や家ごとなど、町内よりさらに細かい単位で氏子が分かれているらしい。
ただし、この稲荷社は上記の本尊発見の逸話に見るように、氏子とは別にやや広い範囲に信者や崇敬者がいたようである。
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【社氏稲荷神社の祭祀】
当番耕地が毎年輪番制で実施。
神主の祝詞奏上、役員による玉串奉納後、直会(飲食会)を行う。