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29号線すぐの小高い丘に鎮座されています、鳥居の後ろにイチョウの木がありきっと落ち葉のころには、黄色の絨毯が楽しめるのではないかと思います。「生野義拳 志士最期の地」でもあります
美国神社 山神社
御祭神 大山祇命
配祀神 火迦具土命 (ヒノカグツチノミコト)
例祭日 9月28日
『生野の変』より
文久3年(1863年)10月14日午後4時半ごろ、生野から逃れて来た美玉三平と中島太郎兵衛、黒田興一郎兄弟は木の谷で押寄せた百姓500人近くに追い込まれます。勢い余った百姓衆は実弾を撃ち始め、美玉は陣笠で弾丸を除けながら凌いでいました。殺気立った百姓衆が追い立てるのに怒った美玉は「五月蝿き百姓原」と抜刀して追い払っていましたが、松の陰から狙い撃ちをされて、銃弾は美玉の鼻を斜めに剥ぎ取りました。血潮を帯びながら美玉は神社の巨大な椋の木の洞穴に身を隠します。うめきながら美玉は身を隠していましたが、出て来い卑怯者と百姓衆の野次る声に腹を立てた美玉は刀を杖に躍り出しました。そのとき狙いを付けていた猟師の弾が美玉の胸を射抜きました。中島太郎兵衛と興一郎は神社の側の民家に逃げ込みます。中島もかなりの手負いでありました。中島は弟興一郎に懐から270両を出して、これを持って逃げろといいますが、興一郎は兄を見捨てるわけにはいかないと。 しかし、中島はここで斃れたら誰が志を継ぐのかと説き、一時の縄の辱めを受けようとも生きろと諭しました。 兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京の六角獄に送られて慶応2年(1866年)2月9日、牢内で病死します。
現在美国神社には美玉三平、中島太郎兵衛両氏の墓があり、建立者の中には北垣国道、そして松本良順の実弟で幕臣でもあった林(はやしただす)の名があります。 また、境内には興一郎が獄中で兄中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだ歌碑があります。
「もののふの 名はいつまでも 木の谷の
そのかんばしき 楠のもと」
木ノ谷(きのたに)
揖保川中流左岸に位置します。
【中世】
木谷 室町期に見える地名。播磨国宍粟郡。永徳・享徳年間(1429~55)頃の神戸本所半済各々注文に木谷が見え、伊和神社と地頭とで半済が行われていました。(伊和神社文書)
【近世】
木ノ谷村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡。江戸期は木谷村とも書きます。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)に当村の名は見えません。しかし、慶長13年(1608年)の検地表には一村として書きあげられています(輝政様御代中村主殿検地人ノ覚)。 姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄元年(1688年)からは三日月藩領。
文久3年(1863年)生野の変のとき、挙兵に失敗した幹部たちのうち美玉三平・中島太郎兵衛・黒田与一郎・堀六郎らは山口村・神子畑村(以上現朝来町)から三方谷(現一宮町)を経て揖保川筋を南下当村に至り農民にたちに囲まれ、美玉は射殺、中島は自害、黒田は逮捕、堀は脱出しましたが、のち逮捕されたそうです。
神社は、山神社。明治22年神野村の大字となりました。
【近代】木ノ谷 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。明治25年生野勤皇志士の慰霊のため山神社の境内に美国神社を建立、明治31年開眼供養を執行(宍粟郡誌)。昭和42年国道29号整備完了。
宍粟市山崎町木ノ谷264
庭田神社さまより、宍粟市地図(観光MAP)を頂きました。ありがとうございました。
名称 | 美国神社 |
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通称 | 山神社 |
電話番号 | 0790720158 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
ご祭神 | 御祭神 大山祇命
配祀神 火迦具土命 (ヒノカグツチノミコト) |
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