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目黒区には、今もなお13カ所の馬頭観音が残されており、それぞれが地域の歴史や文化と深く結びついています。目黒銀座商店街の奥にひっそりと鎮座する馬頭観音もその一つです。
この馬頭観音についての説明看板には、大正時代の終わり頃、目黒区には小規模な乳牛牧場や馬力運送業者が多く存在し、目黒恵比寿畜舎運送組合が組織されていたとあります。これらの業者の代表者たちが発起人となり、牛馬の無病息災を祈り、亡くなった後の菩提を弔う目的で、東松山市の妙安寺から分霊を勧請したそうです。その後、木彫りの馬頭観音像(約8寸=24.3センチ)が安置されました。
●馬頭観音の背景と信仰
目黒の地名の由来には「馬畔(めぐろ)」説や「愛驪(めぐろ)」説があり、目黒競馬場などもあって、目黒は馬に縁の深い土地です。馬にまつわる民話もいくつか存在します。馬頭観音は、本来は人を救う観音様ですが、いつの間にか馬を救う観音様として崇敬されるようになりました。区内には十数基の馬頭観音が確認されており、これらは民間信仰や生活の歴史を伝える貴重な文化財です。
●馬頭観音の姿と意義
馬頭観音は、一般的な慈愛に満ちた優しい観音様とは異なり、怖い顔をしていることが特徴です。これは、衆生(すべての生き物)を導く観音様が、慈悲だけでは教化し難い衆生のために、怒りの姿をもって救い上げようとするためだとされています。また、馬頭観音は「獅子無畏観音」とも呼ばれ、頭上に馬の頭を置いたり、三面六臂、八臂、一面二臂などの様々な形で表現されます。胸の前に結んだ手の組み方は馬口印と呼ばれ、残りの手には蓮華や数珠、金剛棒、輪宝などの法具を持っています。
中世の武士たちは威ある明王として馬頭観音をあがめていましたが、江戸時代に入ると、仏教を民衆に広げる動きの中で馬頭観音信仰も浸透していきました。目黒不動瀧泉寺墓地にある三十間堀馬頭観音は、江戸初期の寛文4年(1664年)に建立され、区内で唯一、教義信仰に基づく馬頭観音とされています。江戸時代中期以降、馬頭観音は、馬を守り、その死後には菩提を弔う観音様と考えられるようになりました。農民や馬の仲買人たちは倒れた馬を埋めた場所や道の辻に馬頭観音を建て、その霊を慰めました。
●現代における馬頭観音
明治以降、馬は運送業者や乗合馬車、競走馬、軍馬として人々の生活に深く関わるようになり、馬頭観音の信仰も変化しました。大正2年には目黒競馬場で焼死した馬のために立派な馬頭観音が建立され、現在でもレース前には無事故を祈るために参拝されています。
目黒銀座通りの中程にある目黒銀座観音は、大正12年に開眼式を行い、翌年には第1回の大祭が執行されました。
名称 | 目黒銀座観音(目黒馬頭観音) |
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御朱印 | なし |
ホームページ | https://tokyomeguro.blog.shinobi.jp/%E4%B8%8A%E7%9B%AE%E9%BB%92/%E7%9B%AE%E9%BB%92%E9%8A%80%E5%BA%A7%E8%A6%B3%E9%9F%B3 |
詳細情報
ご祭神 | 馬頭観音 |
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創建時代 | 大正時代 |
創始者 | 小林氏、神山氏 |
ご由緒 | 大正時代の終り頃、このあたりには小規模の乳牛牧場や馬力運送を業とする者も多く、目黒恵比寿畜舎運送組合を結成していました。
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体験 | 祭り |
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