御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方

たけだはちまんぐう

武田八幡宮の御由緒・歴史
山梨県 韮崎駅

ご祭神《主》誉田別命,息長足姫命,足仲津彦命,武田武大神
創建時代伝822年(弘仁13年)
ご由緒

弘仁13年およそ千二百年前の822年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社になります。京都石清水八幡宮の859年よりも古く、鶴岡八幡宮の1063年より遥かに古くなります。これは武田王の祠に由緒するためで、信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇されました。

伝えによれば、武田の地に日本武尊の王子武田王が封ぜられ、その館の跡を桜の御所と名づけたといわれます。

武田王がなくなられて、御所に祠ほこらをたて武田武大神としてあがめ祀まつられるようになり、王のなきがらは手厚く鰐わに塚に葬ったと伝えられています。

清和天皇の御代になって(858〜876)さらに石清水いわしみず八幡宮を勧請かんじょうして合祀しました。

甲斐守となった源頼信以来代々八幡宮を尊崇してきました。義光の曽孫竜光そうそんりゅうこう丸は武田郷ごうに封を受けると、武田八幡宮を氏神と仰ぎ、社前で元服の式を挙げ、武田太郎信義と名のり、武田郷一円を八幡宮に寄進して厚く当社八幡宮を崇敬していました。

武田信虎の時代になって武田家の氏神としての武田八幡宮を崇拝の気は益々厚く、勝ち戦を続けることのできるのは神の加護の賜たまものと信虎は八幡宮の再建を志し、全面的な大工事に天文元年着工しました。その間にも連戦連勝して国内の統一をなしとげ、隣国にも力を伸ばしていったが諸事情があって、信虎は駿河の国に追われる身となり、天文10年(1541)6月14日、信虎の子武田晴信が武田家をつぎました。

父信虎が十年前に始めた八幡宮の再建の大工事も進み、晴信が武田家をついでから半年後の天文10年12月23日には完成しました。

それが現存する武田八幡宮なのです。昭和4年4月6日国の重要文化財に指定された本殿をはじめとして後世に残る多くの建造物や広大な境内の整備が信虎・信玄の父子の手によってなされたのです。境内神社として、為朝ためとも神社、若宮八幡宮があります。また、社殿及建造物には、本殿(重要文化財)、拝殿、神饌殿、神楽殿、神楽装東舎、隨神門、社務所、石鳥居及正面石垣(県指定文化財)、両部型木の大鳥居及輿石(県指定文化財)、為朝神社社殿、若宮八幡宮社殿、手水舎等があり、いずれもすばらしい文化財であります。

韮崎から八幡宮に通ずる路線も早くから県道に編入されており、近年境内の整備が行われ大駐車場も設けられ常時何台かの車が駐車するようになりました。祭日には神楽等多くの催しもあり参詣者も多く賑っています。

歴史の写真一覧

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
ホトカミを続けるために、あなたのサポートが必要です。
行きたい
投稿する
お問い合わせ

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ