ちょうかいさんおおものいみじんじゃわらびおかぐちのみや
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鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月23日(土)
参拝:2021年10月吉日
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさん・おおものいみ~)蕨岡口ノ宮(わらびおかくちのみや)は、山形県飽海郡遊佐町蕨岡松ヶ岡にある神社。式内社(名神大)で、出羽国一之宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は、大物忌大神。歴史的経緯から、鳥海山山頂と吹浦と蕨岡の3つの社殿があるが、これを一体として鳥海山大物忌神社と称し、山頂の権現堂が本殿で、吹浦と蕨岡はそれぞれ口ノ宮(里宮)という変則的な祭祀体制となっている。
創建は不詳。鳥海山は主たる登山口だけでも吹浦、蕨岡、矢島、小滝の4カ所があり、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成し、異なる伝承が伝わるうえ、登山口間の争いが多かったことから伝説がゆがめられることも多く定説をみない。吹浦の社について、江戸時代に記された『大物忌小物忌縁起』では、景行天皇の御代に出羽国に神が現れ、欽明天皇の御代の564年に飽海郡山上に鎮まり、平安時代初期の806年に吹浦村に遷座と記載されている。蕨岡の社については、同じく江戸時代に記された『鳥海山記并序』、『鳥海山縁起和讃』では、天武天皇の御代に、山の神の命により役行者が山中に出没する鬼を退治して開山し、行者が山に登った際「鳥の海」を見たことから「鳥海山」と名付けたとしている。
平安時代には六国史にもたびたび登場するが、927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「出羽国 飽海郡 大物忌神社 名神大」に比定され、『延喜式』の「主税式」においては、国家の正税から祭祀料2,000束を受ける記載(他は陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社、淡路国大和大国魂社)があり、国家から特別な扱いを受けていたことが伺える。中世において当社は出羽国一之宮とされるとともに、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」と称されていた。また、六国史の記載によると、平安時代以降、神仏習合が進み、仏教隆盛の元、当社は本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕した。江戸時代になると、山頂の鳥海山大権現の管理、社殿の立替、一之宮の称号の使用を巡って登山口間の争いが頻発し、その度に庄内藩、江戸寺社奉行が裁定に入ったが、最終的には明治時代に有栖川宮熾仁親王の通達により、現在の変則的な祭祀体制をもって争いは収束した。
当社(蕨岡口)は、JR羽越本線・遊佐駅の南東4kmの鳥海山の南西山裾で、平地からは少し山道を登った場所にある。境内入口には隋身門(仁王門)があって、神仏習合の名残りを色濃く感じられ、少し登った場所にある社殿(拝殿)は非常に大きく、境内全体に荘厳な雰囲気が漂っている。ただこちらも吹浦口と同様、他の一之宮と比べると、境内社の数は少なく、見て廻るエリアは広くはない。
今回は、出羽国の一之宮、式内社、旧国幣中社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後、自分たち以外には、観光客と思しき夫婦が1組だけ来ていた。
※鳥海山大物忌神社(蕨岡口)は無人社。御朱印は鳥海山大物忌神社(吹浦口)で拝受できる。
創建は不詳。鳥海山は主たる登山口だけでも吹浦、蕨岡、矢島、小滝の4カ所があり、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成し、異なる伝承が伝わるうえ、登山口間の争いが多かったことから伝説がゆがめられることも多く定説をみない。吹浦の社について、江戸時代に記された『大物忌小物忌縁起』では、景行天皇の御代に出羽国に神が現れ、欽明天皇の御代の564年に飽海郡山上に鎮まり、平安時代初期の806年に吹浦村に遷座と記載されている。蕨岡の社については、同じく江戸時代に記された『鳥海山記并序』、『鳥海山縁起和讃』では、天武天皇の御代に、山の神の命により役行者が山中に出没する鬼を退治して開山し、行者が山に登った際「鳥の海」を見たことから「鳥海山」と名付けたとしている。
平安時代には六国史にもたびたび登場するが、927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「出羽国 飽海郡 大物忌神社 名神大」に比定され、『延喜式』の「主税式」においては、国家の正税から祭祀料2,000束を受ける記載(他は陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社、淡路国大和大国魂社)があり、国家から特別な扱いを受けていたことが伺える。中世において当社は出羽国一之宮とされるとともに、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」と称されていた。また、六国史の記載によると、平安時代以降、神仏習合が進み、仏教隆盛の元、当社は本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕した。江戸時代になると、山頂の鳥海山大権現の管理、社殿の立替、一之宮の称号の使用を巡って登山口間の争いが頻発し、その度に庄内藩、江戸寺社奉行が裁定に入ったが、最終的には明治時代に有栖川宮熾仁親王の通達により、現在の変則的な祭祀体制をもって争いは収束した。
当社(蕨岡口)は、JR羽越本線・遊佐駅の南東4kmの鳥海山の南西山裾で、平地からは少し山道を登った場所にある。境内入口には隋身門(仁王門)があって、神仏習合の名残りを色濃く感じられ、少し登った場所にある社殿(拝殿)は非常に大きく、境内全体に荘厳な雰囲気が漂っている。ただこちらも吹浦口と同様、他の一之宮と比べると、境内社の数は少なく、見て廻るエリアは広くはない。
今回は、出羽国の一之宮、式内社、旧国幣中社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後、自分たち以外には、観光客と思しき夫婦が1組だけ来ていた。
※鳥海山大物忌神社(蕨岡口)は無人社。御朱印は鳥海山大物忌神社(吹浦口)で拝受できる。
境内西端入口にある<二の鳥居>と<社号標>。ここから300mほど西側に一の鳥居がある。
鳥居をくぐると、すぐに<隋神門>。元仁王門で、吹浦口ノ宮と違って仏教テイストを感じる。
隋神門をくぐってすぐ左側にある<手水舎>。大きくてしっかりしている。
手水舎の後ろにある、立派な<宝篋印塔>。酒田の豪商・本間家第三代の本間四郎三郎光丘の寄進による。
隋神門をくぐって右手にある<社務所>。大きくて立派だが無人社。御朱印は<吹浦口ノ宮>で拝受する。
参道を進んで、右手に見える<神楽殿>。なんとなく<元鐘楼>っぽい。
少し階段を上がると、左側に南面して<三の鳥居>が立っている。参道は左に直角に曲がる。
三の鳥居をくぐると、広い前庭の向こうに、巨大な<本殿>が建っている。境内の説明書きによると、<拝殿>ではなく<本殿>と記載されていることから、一般でいう拝殿と本殿が一体になっているものと思われる。出羽国独特のものなのかしら?
近づいていくが、とにかく大きい<本殿>。こちらは明治時代の1896年の造営で、桁行三間、梁間六間、切妻造銅板葺、正面に一間向拝を付ける。梁間は約17m、床高は2.3mとのこと。
左側の<狛犬>。本殿が大きくて気付かなかったが、狛犬もかなり大きい。
右側の<狛犬>。年季も相当入っていて、見た目は深海魚系でちょっと怖め...(^_^;)
<本殿>正面。絵様や装飾の要素は少ないが、直線的な意匠でまとめられ、とにかくスケールが大きく豪壮。鈴を鳴らす綱と一緒に吊るされている長細い布袋は、庄内地方独特の物なのかしら?(この後もいろんな神社で見かけた。)
<本殿>内部。外陣(げじん)と内陣(ないじん)に分かれ、背面側の中央間に宮殿が造られている。上部に掛かる扁額には<鳥海山大物忌神社>と書かれ、<有栖川宮熾仁親王書>とある。さすが。
<本殿>に登って、横から見たところ。大寺院の本堂に登ったような感覚。
拝殿に向かって右側に、境内社がいくつか見えるので行ってみる。
まず、段の下には<さざれ石>。
段を登って鳥居の先にあるのは、<摂社風神社・末社荘照居成神社>。
社殿は大きくはないが、軒などの彫刻が繊細で美しい。
その右手にある境内社群。左から順に<末社火鎮神社>、<末社松ヶ岡神社>、<末社白山神社>。
境内社群の右手にある、拝殿跡、蔵王権現碑につづく石段。100段ぐらいなら登ろうかと思ったが、案内板に400段とあったので、へたれな自分は即断念。。。
さざれ石の場所から見た<本殿>。太陽光が樹木の緑に反射して、本殿の壁がきれいな黄金色に見える。
拝殿に向かって左側にすすむ。こちらには境内社が1社だけある。珍しい名前の<木丈葉神社>。
木丈葉神社の近くから見た<本殿>。この建物は拝殿兼本殿なので、もちろん後ろには何も建っていない。
ちょうど手水舎の上部にある石碑群。左側には、明治時代の本殿造営に酒田の豪商・本間光輝が金五百圓と杉217本を奉納したとある。
全体的に仏教の色彩が強いところが、吹浦口ノ宮とは対照的。
すてき
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惣一郎1269投稿
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