耕田院の日常(392回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2024年02月27日(火)
輪橋山徒然話 2024-2-27.
◆さて、問題である。
「遠離る」
なんと読んだらいいだろう。
◆意味は、「だんだん遠くに離れていく」だ。
しかし、物理的に離れる場合だけでなく
「人と人が疎遠になっていく」という意味にも使う。
◆正解は、「とおざかる」だ。
◆二字の熟語にすると「遠離」。お釈迦さまの大事な教えである遺教経八大人覚の「少欲」「知足」の次にある。
◆さて、どこから「遠離」せよというのか。
◆お釈迦さまは、「憒閙(かいにょう)」から「遠離」せよと説く。「憒閙(かいにょう)とは、心を乱す賑(にぎ)やかなところという意味。そういう賑やかで騒がしいところから離れることで、心穏やかに過ごせよという。
◆しかし、「遠離」とは、皆が皆、山奥で一人生活せよということではなく、一人ひとり、自らの「憒閙」を見極めなければならない。
◆たとえば現代の「憒閙」といえばSNSへの依存が考えられる。街中にあふれる「SNSの依存者は周囲と断絶し、情報機器を片時も離さない。始終操作している彼らは、どの顔も「無表情」だ。とり憑かれたようにも見えてくる。
◆SNSの向こう側は現実ではなく、バーチャル・仮想空間なのだということは、誰しもが理解しているし、スマホはただの道具だ。ゲームで遊んでいるのに、なぜ、あんなに無表情なのだろう。
◆そのヒントは「依存」ということばにある。何かに「依存」して人間は、それを本当は嫌いなのだという。好きなのに嫌いなのだ。
◆たとえば「アルコール依存症」は、酒は浴びるほど飲むのに、酒は大嫌いだというし、「ニコチン中毒」の人も「たばこ」が大嫌いだという。嫌いなのに、アルコールに頼り、ニコチンを接種する。大好きなのに大嫌い。それが「依存」なのだ。同じようにSNS依存はSNSの怖さを知っていて、SNSが大嫌い。それなのに、取り憑かれているそれが、あの表情なのかもしれないと最近強く思う。
◆なぜ、大嫌いなSNS依存に依存してしまうのだろうか。理由の一つに、周りに合わせなければ自分を保てなくなる「恐れ」からだという。
◆お釈迦さまが説く現代の「遠離」の教えとは、「ぼっちの選択」だ。つまり「遠離る」のだ。時には、無理して人に合わせるよりも「(独り)ぼっち」の方が自由だという発想を持つのだ。
◆「孤独を恐れず」時には雑音から離れて、静かに自己を見つめる時間を持てというのが「遠離」の教えだ。他人に合わせるのではなく、自分と向き合うのだ。
参考
遺教経八大人覚 「遠離」
汝等比丘(なんだちびく)、寂静無為(じゃくじょうむい)の安楽を求めんと欲せば當(まさに)憒閙(かいにょう)を離れて独処(どくしょ)に閑居(げんごすべし).(略)
世間の縛著(ばくぢゃく)は衆苦(しゅく)に没す、譬(たとえ)ば老象(ろうぞう)の泥(でい)に溺(おぼ)れて自ら出(いづ)ること能(あたわ)ざるが如し、是(これ)を遠離と名(な)づく。
(意訳)
弟子たちよ、一切の迷いや妄想から離れ、自由自在の安楽を求めるのならば、乱雑で騒々しい場所から離れ、一人静かに過ごすのがよい。(略)
世間の名誉や縛りは人々に苦悩を与え、我が身を滅ぼしかねない。老いた象が泥沼に溺れて、自分で脱出できなくなるようなものである。だから、世間の喧騒から距離を置くべきであり、これを「遠離」という。
#心は大山
#輪橋山徒然話
#土門拳記念館
#遠離
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#ぼっちの選択 #遺教経八大人覚
◆さて、問題である。
「遠離る」
なんと読んだらいいだろう。
◆意味は、「だんだん遠くに離れていく」だ。
しかし、物理的に離れる場合だけでなく
「人と人が疎遠になっていく」という意味にも使う。
◆正解は、「とおざかる」だ。
◆二字の熟語にすると「遠離」。お釈迦さまの大事な教えである遺教経八大人覚の「少欲」「知足」の次にある。
◆さて、どこから「遠離」せよというのか。
◆お釈迦さまは、「憒閙(かいにょう)」から「遠離」せよと説く。「憒閙(かいにょう)とは、心を乱す賑(にぎ)やかなところという意味。そういう賑やかで騒がしいところから離れることで、心穏やかに過ごせよという。
◆しかし、「遠離」とは、皆が皆、山奥で一人生活せよということではなく、一人ひとり、自らの「憒閙」を見極めなければならない。
◆たとえば現代の「憒閙」といえばSNSへの依存が考えられる。街中にあふれる「SNSの依存者は周囲と断絶し、情報機器を片時も離さない。始終操作している彼らは、どの顔も「無表情」だ。とり憑かれたようにも見えてくる。
◆SNSの向こう側は現実ではなく、バーチャル・仮想空間なのだということは、誰しもが理解しているし、スマホはただの道具だ。ゲームで遊んでいるのに、なぜ、あんなに無表情なのだろう。
◆そのヒントは「依存」ということばにある。何かに「依存」して人間は、それを本当は嫌いなのだという。好きなのに嫌いなのだ。
◆たとえば「アルコール依存症」は、酒は浴びるほど飲むのに、酒は大嫌いだというし、「ニコチン中毒」の人も「たばこ」が大嫌いだという。嫌いなのに、アルコールに頼り、ニコチンを接種する。大好きなのに大嫌い。それが「依存」なのだ。同じようにSNS依存はSNSの怖さを知っていて、SNSが大嫌い。それなのに、取り憑かれているそれが、あの表情なのかもしれないと最近強く思う。
◆なぜ、大嫌いなSNS依存に依存してしまうのだろうか。理由の一つに、周りに合わせなければ自分を保てなくなる「恐れ」からだという。
◆お釈迦さまが説く現代の「遠離」の教えとは、「ぼっちの選択」だ。つまり「遠離る」のだ。時には、無理して人に合わせるよりも「(独り)ぼっち」の方が自由だという発想を持つのだ。
◆「孤独を恐れず」時には雑音から離れて、静かに自己を見つめる時間を持てというのが「遠離」の教えだ。他人に合わせるのではなく、自分と向き合うのだ。
参考
遺教経八大人覚 「遠離」
汝等比丘(なんだちびく)、寂静無為(じゃくじょうむい)の安楽を求めんと欲せば當(まさに)憒閙(かいにょう)を離れて独処(どくしょ)に閑居(げんごすべし).(略)
世間の縛著(ばくぢゃく)は衆苦(しゅく)に没す、譬(たとえ)ば老象(ろうぞう)の泥(でい)に溺(おぼ)れて自ら出(いづ)ること能(あたわ)ざるが如し、是(これ)を遠離と名(な)づく。
(意訳)
弟子たちよ、一切の迷いや妄想から離れ、自由自在の安楽を求めるのならば、乱雑で騒々しい場所から離れ、一人静かに過ごすのがよい。(略)
世間の名誉や縛りは人々に苦悩を与え、我が身を滅ぼしかねない。老いた象が泥沼に溺れて、自分で脱出できなくなるようなものである。だから、世間の喧騒から距離を置くべきであり、これを「遠離」という。
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