耕田院の日常(363回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2024年01月27日(土)
輪橋山徒然話 2024-1-27 福沢諭吉の母於順の薫陶
◆薫陶とは、香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から、徳の力で人を感化し、教育することをいう。
◆「こうしてこの人がここに来るのは、虱を取ってもらえれば気持ちがいいからでしょう。自分ではできないのですよ。できる人ができない人のためにしてあげる、それが人として当たり前だと思うのだけれど……」
◆福沢諭吉の母、於順の言葉だ。
◆福沢諭吉は5人きょうだいの末っ子として大坂に生まれた。しかし、父を亡くし、父母の郷里・中津(現・大分県中津市)へ一家で移った。大黒柱を失い、貧しい生活を送る中、諭吉は幼い時から母、於順の内職をよく手伝ったそうだ。
◆その諭吉の家を身寄りがなく、汚い身なりをした女の子がよく訪ねてきた。於順は彼女を庭へ連れていって虱を取ってやる。取った虱を潰すのが諭吉の役目たった。諭吉はそれが嫌で仕方がない。
◆ある日、「今日は気分が悪いので」と諭吉がそっぽを向くと、於順は言ったのが冒頭の「こうしてここに来るのは…」だ。
◆「できる人ができない人のためにしてあげる、それが人として当たり前」。そこが通じない、共有できないのが現在の教育だ。
◆「人として」と教えられるのは「○×教育の学校」ではない。そこに、学校教育の浅さと限界がある。本来「人として」の教育は薫陶という形でなされるべきものなのだ。自然に身に付くのがよいのだ。それは、母からでも父からでも、祖父母でもよい。家庭から離れ、師と仰ぐ人からでも、本からでもよい。
◆それでは「人として」をどのように子どもに薫陶すればよいのだろう。ヒントになるのは福沢諭吉の母於順だ。於順は、亡き夫であり、諭吉の父百助の話として子どもたちに伝えたという。
◆諭吉の父、百助は45歳、脳出血で亡くなった。その時、諭吉がまだ一歳半だった。母於順は、子どもたちに毎日のように父親のことを語って聞かせたという。その中で子どもたちは、父親の美質を自然に受け継いだという。もって生まれたものではない。素質として受けついたのではない。「言葉」として、あるいは「物語」として受けついたのだ。
◆学ぶべきことは、於順が、死んだ人を生かし続ける方法を知っていたということだ。
つまり、於順は、薫陶という方法で子どもたちの人間の核として亡き夫を生かしたのだ。「福翁自伝」には「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」とあるが、諭吉そのものが親の薫陶という産物である証だ。
◆さて、皆さまはどのような「薫陶」を受けて、人生を歩んできただろう。例えば「薫陶」を視点に、人生を振り返ってみてはどうだろう。鮮やかに思い浮かぶものがあるはずだ。出会いへの感謝、自分への労いもあろう、また、定めや運命、縁への思いも積もるかもしれない。
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#心は大山
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#福沢諭吉の母
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◆薫陶とは、香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から、徳の力で人を感化し、教育することをいう。
◆「こうしてこの人がここに来るのは、虱を取ってもらえれば気持ちがいいからでしょう。自分ではできないのですよ。できる人ができない人のためにしてあげる、それが人として当たり前だと思うのだけれど……」
◆福沢諭吉の母、於順の言葉だ。
◆福沢諭吉は5人きょうだいの末っ子として大坂に生まれた。しかし、父を亡くし、父母の郷里・中津(現・大分県中津市)へ一家で移った。大黒柱を失い、貧しい生活を送る中、諭吉は幼い時から母、於順の内職をよく手伝ったそうだ。
◆その諭吉の家を身寄りがなく、汚い身なりをした女の子がよく訪ねてきた。於順は彼女を庭へ連れていって虱を取ってやる。取った虱を潰すのが諭吉の役目たった。諭吉はそれが嫌で仕方がない。
◆ある日、「今日は気分が悪いので」と諭吉がそっぽを向くと、於順は言ったのが冒頭の「こうしてここに来るのは…」だ。
◆「できる人ができない人のためにしてあげる、それが人として当たり前」。そこが通じない、共有できないのが現在の教育だ。
◆「人として」と教えられるのは「○×教育の学校」ではない。そこに、学校教育の浅さと限界がある。本来「人として」の教育は薫陶という形でなされるべきものなのだ。自然に身に付くのがよいのだ。それは、母からでも父からでも、祖父母でもよい。家庭から離れ、師と仰ぐ人からでも、本からでもよい。
◆それでは「人として」をどのように子どもに薫陶すればよいのだろう。ヒントになるのは福沢諭吉の母於順だ。於順は、亡き夫であり、諭吉の父百助の話として子どもたちに伝えたという。
◆諭吉の父、百助は45歳、脳出血で亡くなった。その時、諭吉がまだ一歳半だった。母於順は、子どもたちに毎日のように父親のことを語って聞かせたという。その中で子どもたちは、父親の美質を自然に受け継いだという。もって生まれたものではない。素質として受けついたのではない。「言葉」として、あるいは「物語」として受けついたのだ。
◆学ぶべきことは、於順が、死んだ人を生かし続ける方法を知っていたということだ。
つまり、於順は、薫陶という方法で子どもたちの人間の核として亡き夫を生かしたのだ。「福翁自伝」には「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」とあるが、諭吉そのものが親の薫陶という産物である証だ。
◆さて、皆さまはどのような「薫陶」を受けて、人生を歩んできただろう。例えば「薫陶」を視点に、人生を振り返ってみてはどうだろう。鮮やかに思い浮かぶものがあるはずだ。出会いへの感謝、自分への労いもあろう、また、定めや運命、縁への思いも積もるかもしれない。
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