耕田院の日常(301回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年06月24日(土)
「食を節することは 天地に陰徳を積むこと」について考えた。2023/6/8 輪橋山徒然話
◆「今でしょ!」の林修さんは、小池百合子東京都知事との対談で次のようなことを言った。
今はこの男は何月何日どこで電車に乗り、どこの売店で何をいくらで買ってというようなことが全部記録されていて、そのデータをみたら、その人間が大体わかるというわけです。
-略-
例えばセブンイレブンで頻繁におにぎり100円セールをやっているわけですよ。僕なんかは100円になると買います。するとこいつは、100円の時しか買わない男だというデータを、自分で好んでわずかなポイントと引き換えにして提供してしまったという話です。
-略-
だから現代人は丸裸にされているようなものですね。
◆遠い江戸の昔、奇抜な方法でデータを収集し、そのデータをもとに「観相」なるものの研究をした男がいた。「観相」とは、骨相、体相など、人体のつくりから性格や人の運命を丸裸にする占い、または学問だ。
◆今朝は数奇な運命のもとこの「観相」と出会い、極めた男の話だ。その男とは、水野 南北(みずの なんぼく)1760年-1834年である。
◆南北は、大坂阿波座(大阪市西区)に生まれる。幼くして両親を亡くし、鍛冶屋をしていた叔父夫婦に育てられた。しかし子どもの頃より酒を覚え、酒と博打と喧嘩に明け暮れた。
◆そして18歳頃、とうとう酒代欲しさに悪事をはたらき、入牢するに至った。
◆牢内で南北は、「牢内の罪人の相」と、「娑婆の人の相」、つまり顔つきに、明らかな違いがあり、人にはそれぞれ「相」があると気が付く。
◆出牢後、南北は易者に自分の相を見てもらう。なんと「剣難の相であと1年の命」と宣告される。南北自身が天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのである。
◆「助かる道は出家しかない」と言われ、その災いから逃れるため 禅寺で出家を願い出る。
◆ところが、住職は南北の悪人面を見、「1年間、米飯を口にせず、麦と大豆のみで過せたら入門を許す」と告げた。
◆そこで、南北は死への恐怖から好きな酒もぷっつりと絶ち麦と豆を常食にし、川仲仕の暮らを始める。
◆1年後のことである。
◆易者と再会する。易者に「剣難の相が消えている。何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ、何もしなかったが食事を麦と豆だけにしたことを言うと、易者は次のように教えた。
◆「食を節することは 天地に陰徳を積むことであり、それにより、知らず知らずに、天録が書き換えられ相まで変わったのだ」
◆これを契機に南北は観相学を志す。
◆まず誰かに弟子入りするとか、本で調べるのではない。南北は自分が実際に手に触れ、データを体の中に入れていくように、三つの仕事を3年ずつする修行を自らに課した。
◆まず3年間は、散髪屋の小僧になって頭の相を研究した。次の3年間は、風呂屋の三助をして、裸体を観察。その後の3年間はなんと死体の研究を始めた。
◆死体の研究は、火葬場の隠亡(おんぼう)。死体を処理する仕事をして死者の骨相や死因がわかっている死体を観察したのだ。
◆10年近く自分の目と手で「相」を収集し、そのデータから「観相」を極めていった。無手勝流に見えて観相を極める上で見事な戦略だったと思う。
◆そんな南北がたどり着いたのは「自らの天下の悪相」を改めるに至った「食事」である。「人の運は食にあり」とし、生涯粗食を貫いた。その食事は、主食は麦飯で、副食は一汁一菜であった。米は一切口にせず、酒も、1日1合と決めて、けっしてそれ以上は飲まなかったそうだ。〝節食〟は健康の基礎としてのみならず、運の重要な要素なのだというのが南北の結論だ。
◆瀬戸内寂聴さんの長生きの秘訣。
寂聴さんは、常々書きたいものがまだある、原稿を書きながら死にたいとの創作意欲をお持ちだった。それが精神的、肉体的な若さにつながっていたと思う。つまり、自分は何のために生きるかと自問し、その目的をもっていたことが99歳の寿命につながったのだ。
◆いつもニコニコ。一筆啓上付箋写経。
ブログとHP↓
lit.link/oyama1049
◆「今でしょ!」の林修さんは、小池百合子東京都知事との対談で次のようなことを言った。
今はこの男は何月何日どこで電車に乗り、どこの売店で何をいくらで買ってというようなことが全部記録されていて、そのデータをみたら、その人間が大体わかるというわけです。
-略-
例えばセブンイレブンで頻繁におにぎり100円セールをやっているわけですよ。僕なんかは100円になると買います。するとこいつは、100円の時しか買わない男だというデータを、自分で好んでわずかなポイントと引き換えにして提供してしまったという話です。
-略-
だから現代人は丸裸にされているようなものですね。
◆遠い江戸の昔、奇抜な方法でデータを収集し、そのデータをもとに「観相」なるものの研究をした男がいた。「観相」とは、骨相、体相など、人体のつくりから性格や人の運命を丸裸にする占い、または学問だ。
◆今朝は数奇な運命のもとこの「観相」と出会い、極めた男の話だ。その男とは、水野 南北(みずの なんぼく)1760年-1834年である。
◆南北は、大坂阿波座(大阪市西区)に生まれる。幼くして両親を亡くし、鍛冶屋をしていた叔父夫婦に育てられた。しかし子どもの頃より酒を覚え、酒と博打と喧嘩に明け暮れた。
◆そして18歳頃、とうとう酒代欲しさに悪事をはたらき、入牢するに至った。
◆牢内で南北は、「牢内の罪人の相」と、「娑婆の人の相」、つまり顔つきに、明らかな違いがあり、人にはそれぞれ「相」があると気が付く。
◆出牢後、南北は易者に自分の相を見てもらう。なんと「剣難の相であと1年の命」と宣告される。南北自身が天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのである。
◆「助かる道は出家しかない」と言われ、その災いから逃れるため 禅寺で出家を願い出る。
◆ところが、住職は南北の悪人面を見、「1年間、米飯を口にせず、麦と大豆のみで過せたら入門を許す」と告げた。
◆そこで、南北は死への恐怖から好きな酒もぷっつりと絶ち麦と豆を常食にし、川仲仕の暮らを始める。
◆1年後のことである。
◆易者と再会する。易者に「剣難の相が消えている。何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ、何もしなかったが食事を麦と豆だけにしたことを言うと、易者は次のように教えた。
◆「食を節することは 天地に陰徳を積むことであり、それにより、知らず知らずに、天録が書き換えられ相まで変わったのだ」
◆これを契機に南北は観相学を志す。
◆まず誰かに弟子入りするとか、本で調べるのではない。南北は自分が実際に手に触れ、データを体の中に入れていくように、三つの仕事を3年ずつする修行を自らに課した。
◆まず3年間は、散髪屋の小僧になって頭の相を研究した。次の3年間は、風呂屋の三助をして、裸体を観察。その後の3年間はなんと死体の研究を始めた。
◆死体の研究は、火葬場の隠亡(おんぼう)。死体を処理する仕事をして死者の骨相や死因がわかっている死体を観察したのだ。
◆10年近く自分の目と手で「相」を収集し、そのデータから「観相」を極めていった。無手勝流に見えて観相を極める上で見事な戦略だったと思う。
◆そんな南北がたどり着いたのは「自らの天下の悪相」を改めるに至った「食事」である。「人の運は食にあり」とし、生涯粗食を貫いた。その食事は、主食は麦飯で、副食は一汁一菜であった。米は一切口にせず、酒も、1日1合と決めて、けっしてそれ以上は飲まなかったそうだ。〝節食〟は健康の基礎としてのみならず、運の重要な要素なのだというのが南北の結論だ。
◆瀬戸内寂聴さんの長生きの秘訣。
寂聴さんは、常々書きたいものがまだある、原稿を書きながら死にたいとの創作意欲をお持ちだった。それが精神的、肉体的な若さにつながっていたと思う。つまり、自分は何のために生きるかと自問し、その目的をもっていたことが99歳の寿命につながったのだ。
◆いつもニコニコ。一筆啓上付箋写経。
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