耕田院の日常(286回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年06月08日(木)
「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」と水戸の黄門さまのお話と「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」の寂聴さんについて考える。
輪橋山徒然話
◆「助さん、角さん懲らしめてやりなさい」
というセリフに始まり、
「ひかえ!ひかえ!ひかえ!この紋所が目に入らぬか!こちらにおわすお方をどなたとこころえる。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ!」
◆勧善懲悪。ご存知水戸黄門である。
◆高森顕徹先生のお話にも水戸黄門の話があった。
領内を巡視中のことである。
かねて、親孝行者に、ばくだいなごほうびをくださるという、老公のうわさをきいていた大の親不孝者。
ほうびをせしめるチャンスとばかり、平素、虐待し続けていた母親を背負って、さも孝行者らしく、老公の行列を拝していた。ふと光圀公が、それをご覧になって、側近に命じた。
(なんでもお見通しの黄門様。親不孝を見逃すわけはないと思いきや)
「あの者に、ほうびをとらせよ」
(えっ、家来は驚き次のように進言する)
「なんと仰せられます。彼奴は人も知る、大の不孝者でございます。今日、あのように母親を背負って行列を拝しているのは、殿の御目をあざむき、ほうびほしさのためでございます」
(ところがで、ある)
世間周知の事実を申し上げても、ウンウンとうなずきながら老公は、こう諭したという。
(みなさま、光圀さまは次の3つのことを言ったのだが、これには驚いた。)
「ウソでも、偽りでもよいではないか。」
「形だけでもよい。」
「そして今日一日だけでもよろしい。」
(えっ、何んにもならないではないかという顔の家来に向かって)
こう光圀さまは付け加えたという。
「一度でもああして、親を背負ってやることが大切なのだ。うんとほうびを与えよ」
◆一体どういうことであろうか。「親を背負う啄木」で考えてみた。
たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
◆この句は、ふざけて母を背負ってみたけれど、そのあまりの軽さに涙がこぼれて、三歩も歩けないという意味だ。先ほどの男も母を背負ったことなどないだろう。しかし男も啄木と同じことにやがて気がつく、孝行の心を持つと黄門さまはいうのだ。
◆つまり、母の衰えと有り難さと自ら後悔が「おのずと善心がよみがえってくる」瞬間があることを見抜いているのだ。人真似だけれども、母を背負えば、本来誰しもが心に持っている仏の心が目を覚ますということなのだ。
◆スタートや登り方は違っても、仏の心というゴールへの道を励めばよいのである。
◆そんな意味での瀬戸内寂聴さんは詠む母の日の句がある。
子を捨てしわれに母の日喪のごとく
◆戒めと懺悔の中に生きた人の句である。
人はときには選択を誤ることがある。後悔することもある。そういう失敗と後悔の経験によって人間は磨かれていくのだということを寂聴さんはその人生の中で教えているのだ。その覚悟の句である。
いつもニコニコハラタテマイゾヤソワカ
ブログとHP↓
lit.link/oyama1049
輪橋山徒然話
◆「助さん、角さん懲らしめてやりなさい」
というセリフに始まり、
「ひかえ!ひかえ!ひかえ!この紋所が目に入らぬか!こちらにおわすお方をどなたとこころえる。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ!」
◆勧善懲悪。ご存知水戸黄門である。
◆高森顕徹先生のお話にも水戸黄門の話があった。
領内を巡視中のことである。
かねて、親孝行者に、ばくだいなごほうびをくださるという、老公のうわさをきいていた大の親不孝者。
ほうびをせしめるチャンスとばかり、平素、虐待し続けていた母親を背負って、さも孝行者らしく、老公の行列を拝していた。ふと光圀公が、それをご覧になって、側近に命じた。
(なんでもお見通しの黄門様。親不孝を見逃すわけはないと思いきや)
「あの者に、ほうびをとらせよ」
(えっ、家来は驚き次のように進言する)
「なんと仰せられます。彼奴は人も知る、大の不孝者でございます。今日、あのように母親を背負って行列を拝しているのは、殿の御目をあざむき、ほうびほしさのためでございます」
(ところがで、ある)
世間周知の事実を申し上げても、ウンウンとうなずきながら老公は、こう諭したという。
(みなさま、光圀さまは次の3つのことを言ったのだが、これには驚いた。)
「ウソでも、偽りでもよいではないか。」
「形だけでもよい。」
「そして今日一日だけでもよろしい。」
(えっ、何んにもならないではないかという顔の家来に向かって)
こう光圀さまは付け加えたという。
「一度でもああして、親を背負ってやることが大切なのだ。うんとほうびを与えよ」
◆一体どういうことであろうか。「親を背負う啄木」で考えてみた。
たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
◆この句は、ふざけて母を背負ってみたけれど、そのあまりの軽さに涙がこぼれて、三歩も歩けないという意味だ。先ほどの男も母を背負ったことなどないだろう。しかし男も啄木と同じことにやがて気がつく、孝行の心を持つと黄門さまはいうのだ。
◆つまり、母の衰えと有り難さと自ら後悔が「おのずと善心がよみがえってくる」瞬間があることを見抜いているのだ。人真似だけれども、母を背負えば、本来誰しもが心に持っている仏の心が目を覚ますということなのだ。
◆スタートや登り方は違っても、仏の心というゴールへの道を励めばよいのである。
◆そんな意味での瀬戸内寂聴さんは詠む母の日の句がある。
子を捨てしわれに母の日喪のごとく
◆戒めと懺悔の中に生きた人の句である。
人はときには選択を誤ることがある。後悔することもある。そういう失敗と後悔の経験によって人間は磨かれていくのだということを寂聴さんはその人生の中で教えているのだ。その覚悟の句である。
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すてき
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