耕田院の日常(198回目)|山形県羽前大山駅
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投稿日:2023年02月23日(木)
昨日の続き「婆子焼庵(ばししょうあん)」の話である。
◆「何やらそっと命令?」ひょっとして、「誘惑」か。禅僧の対応に老婆は怒った。
◆むかし、あるところに老婆がいた。老婆は一人の禅僧に庵(いおり)を建て、衣食を送り、修業を資(た)すけた。かれこれ二十年間。ある日、老婆は思った。さぞかし修業を積んだことであろうと。一つ試してみようと老婆は考えた。自分の腰元の中でも、年頃で一番美人の女を選び、そして、何やらいいつけ、かの禅僧の修業している庵室へ行かせたのだ。
◆腰元は、禅僧が室の中央に静かに坐禅を組んでいたところへ行き、いきなり禅僧にもたれかかり、「あなた、こうして、どんな気持ち」と言った。禅僧は、顔色一つ動かさず、「枯木寒巌に倚(よ)る、三冬暖気無し」と返答した「きっぱりと断った」のだ。
◆しかし、その返答を聞くと老婆は大変怒り「俗物の僧を永らく優待していた。わたしは見込み違いをしていた」と言って、その僧を追い出し、住まわしていた庵室まで穢(けが)らわしいと言って焼き払ったのだ。
◆なぜ老婆は、戒律を守り、謹厳な僧の態度を俗物と罵ったのだろうか。
◆本日は岡本かの子さんの解説を読んでいこうと思う。
◆結論は、これでは、まるで人間味がありません。これでは草木も同様だ。つまり、断り方、「枯木寒巌のごとし」と言って澄まし返った僧の態度を老婆は非難したのだ。岡本かの子さんが言うには、一旦は断るにしろあるいは(永久に断るにしろ)、相手の女性に恥をかかせてはいけない。だからといって、自分の品位も堕(お)としてはいけない。その場にふさわしい人情味のある処置と言葉がありそうなものだというのだ。
◆岡本かの子さんは、こんな人情味のある言葉と対応を示している。
女性の気持ちを汲みながら、無邪気ににっこり笑って「あなたが私をどんなに愛して下さっても、私は仏に仕える身ですから、あなたの愛を受ける事が出来ません。さあ早くお帰りなさい」とでも言いきかせて、肩へかけられた手をそっと外はずしてのければ、よかったのだと。
◆老婆は、二十年も修業して、そのくらいの自由な対応が取れないとは、誘惑に負けまいと一生懸命、肩肘張って、非人情に噛(かじ)りついていなければならないとは、まだどこか心に弱いところがある。そこを老婆は見破ったのだと岡本かの子さんは言うのだ。つまり、未熟な偽物がそこにあると見破ったのだ。
◆そして、岡本かの子さんは話は次のように結んでいる。
「泥中の蓮の花」のように、雑多な野心や誘惑や愛欲の真只中に生きながら、その汚れに染まず、しかもその欲望、誘惑をうまく消化善用して立派な人格完成、絶対の安心、無上の幸福という花を咲かせるのです。
これが本当の仏教が、勇ましく私たちに教え勧める処世法であり、先刻の禅僧といえども、この事を体得しなければ俗人に劣ると言わねばなりません。
◆高い土地には美しい蓮の花は咲かず、低い泥だらけの沼地の中にこそ、花が咲くように泥が濃ければ濃いほど、立ち上がった蓮は美しい。一点の汚れもない。泥の汚れを否定し、遠ざけるばかりではならない。まして、急に訪れた女人が老婆の差し金であろうことなど知りながら、禅僧の「立場」のみでの対応、その小ささと20年という途方もない時間が許せなかったのだろう。そもそも仏の教えとは、汚れ多きこの世をいかにして、清々しく生き抜いていくかという教えなのである。
◆このお話、皆様はどう思われただろう。
◆昭和9年11月「仏教人生読本」の中にあるお話でした。
◆「何やらそっと命令?」ひょっとして、「誘惑」か。禅僧の対応に老婆は怒った。
◆むかし、あるところに老婆がいた。老婆は一人の禅僧に庵(いおり)を建て、衣食を送り、修業を資(た)すけた。かれこれ二十年間。ある日、老婆は思った。さぞかし修業を積んだことであろうと。一つ試してみようと老婆は考えた。自分の腰元の中でも、年頃で一番美人の女を選び、そして、何やらいいつけ、かの禅僧の修業している庵室へ行かせたのだ。
◆腰元は、禅僧が室の中央に静かに坐禅を組んでいたところへ行き、いきなり禅僧にもたれかかり、「あなた、こうして、どんな気持ち」と言った。禅僧は、顔色一つ動かさず、「枯木寒巌に倚(よ)る、三冬暖気無し」と返答した「きっぱりと断った」のだ。
◆しかし、その返答を聞くと老婆は大変怒り「俗物の僧を永らく優待していた。わたしは見込み違いをしていた」と言って、その僧を追い出し、住まわしていた庵室まで穢(けが)らわしいと言って焼き払ったのだ。
◆なぜ老婆は、戒律を守り、謹厳な僧の態度を俗物と罵ったのだろうか。
◆本日は岡本かの子さんの解説を読んでいこうと思う。
◆結論は、これでは、まるで人間味がありません。これでは草木も同様だ。つまり、断り方、「枯木寒巌のごとし」と言って澄まし返った僧の態度を老婆は非難したのだ。岡本かの子さんが言うには、一旦は断るにしろあるいは(永久に断るにしろ)、相手の女性に恥をかかせてはいけない。だからといって、自分の品位も堕(お)としてはいけない。その場にふさわしい人情味のある処置と言葉がありそうなものだというのだ。
◆岡本かの子さんは、こんな人情味のある言葉と対応を示している。
女性の気持ちを汲みながら、無邪気ににっこり笑って「あなたが私をどんなに愛して下さっても、私は仏に仕える身ですから、あなたの愛を受ける事が出来ません。さあ早くお帰りなさい」とでも言いきかせて、肩へかけられた手をそっと外はずしてのければ、よかったのだと。
◆老婆は、二十年も修業して、そのくらいの自由な対応が取れないとは、誘惑に負けまいと一生懸命、肩肘張って、非人情に噛(かじ)りついていなければならないとは、まだどこか心に弱いところがある。そこを老婆は見破ったのだと岡本かの子さんは言うのだ。つまり、未熟な偽物がそこにあると見破ったのだ。
◆そして、岡本かの子さんは話は次のように結んでいる。
「泥中の蓮の花」のように、雑多な野心や誘惑や愛欲の真只中に生きながら、その汚れに染まず、しかもその欲望、誘惑をうまく消化善用して立派な人格完成、絶対の安心、無上の幸福という花を咲かせるのです。
これが本当の仏教が、勇ましく私たちに教え勧める処世法であり、先刻の禅僧といえども、この事を体得しなければ俗人に劣ると言わねばなりません。
◆高い土地には美しい蓮の花は咲かず、低い泥だらけの沼地の中にこそ、花が咲くように泥が濃ければ濃いほど、立ち上がった蓮は美しい。一点の汚れもない。泥の汚れを否定し、遠ざけるばかりではならない。まして、急に訪れた女人が老婆の差し金であろうことなど知りながら、禅僧の「立場」のみでの対応、その小ささと20年という途方もない時間が許せなかったのだろう。そもそも仏の教えとは、汚れ多きこの世をいかにして、清々しく生き抜いていくかという教えなのである。
◆このお話、皆様はどう思われただろう。
◆昭和9年11月「仏教人生読本」の中にあるお話でした。
すてき
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