耕田院の日常(154回目)|山形県羽前大山駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2023年01月04日(水)
「あなあさここ」と入れ、朝POSTするようになって1年経つ。なぜ朝、4時半なのか。「あなあさここ」なのか。
◆一つの理由は、松下幸之助さんの「日々是新(ひびこれあらた)」を読んだことがきっかけだ。
◆年があらたまれば心もあらたまる。心があらたまればおめでたい。正月だけがめでたいのではない。心があらたまったとき、それはいつでもおめでたい。
◆そしてこう続く。
きのうもきょうも、自然の動きには何ら変わりはない。照る陽、吹く風、みな同じ。それでも心があらたまれば、見るもの聞くものが、みな新しい。
年の始めは元日で、一日の始めは朝起きたとき。年の始めがおめでたければ、朝起きたときも同じこと。毎朝、心があらたまれば、毎日がお正月。あらたまった心には、すべてのものが新しく、すべてのものがおめでたい。
きのうはきのう、きょうはきょう。きのうの苦労をきょうまで持ち越すことはない。「一日の苦労は一日にて足れり」というように、きょうはまたきょうの運命がひらける。きのうの分まで背負ってはいられない。毎日が新しく、毎日が門出である。
日々是新なれば、すなわち日々是好日。素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく、毎日が元気。
◆松下幸之助さんは、パナソニックホールディングス(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。実際に「松下幸之助社」まであり、そこの祭神であるという。
◆皆、人生は明るく、満足のいくものでありたいと思うのは当然のことである。しかし、なかなか思い通りにいかないのも人生である。だからこそ、「おめでたい朝」を大事にして新しい気持ちで臨まねばならない。そうすれば、松下幸之助さんの言うように「新しい運命が開ける」のだ。1日24時間は平等にあることを忘れてはならないのだ。
◆瀬戸内寂聴さんも「日々これ新たなり」を次のように教えている。二つ目の理由である。
夜の熟睡を死んだように眠るとたとえるのは、適切な表現かもしれません。人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦るのだと考えられるからです。「日々これ新たなり」ですね。
◆寂聴さんは、一度死んで、朝、再び蘇るというのである。生き返るというのである。それは、大きな営みの中で、一度死んで、もう一度この世界にもどしてもらうということでもあろう。そう考えると、「この世で自分が必要とされ、生かされている」のだと実感できるし、今日の新たな命に感謝して、今日1日を丁寧に大切に生きようと思えるだろう。そう感じられるのは、眠りから覚めた「朝」だけなのだ。だから、「蘇りの朝」を大事にしなければならないのだ。
◆このInstagramも日々是好日。皆様の朝のスタートを願って「あなあさここ」です。今年も、「あな」たの・「あさ」の・「ここ」ろにアプローチしていきたいと思います。よろしくお願いします。
◆一つの理由は、松下幸之助さんの「日々是新(ひびこれあらた)」を読んだことがきっかけだ。
◆年があらたまれば心もあらたまる。心があらたまればおめでたい。正月だけがめでたいのではない。心があらたまったとき、それはいつでもおめでたい。
◆そしてこう続く。
きのうもきょうも、自然の動きには何ら変わりはない。照る陽、吹く風、みな同じ。それでも心があらたまれば、見るもの聞くものが、みな新しい。
年の始めは元日で、一日の始めは朝起きたとき。年の始めがおめでたければ、朝起きたときも同じこと。毎朝、心があらたまれば、毎日がお正月。あらたまった心には、すべてのものが新しく、すべてのものがおめでたい。
きのうはきのう、きょうはきょう。きのうの苦労をきょうまで持ち越すことはない。「一日の苦労は一日にて足れり」というように、きょうはまたきょうの運命がひらける。きのうの分まで背負ってはいられない。毎日が新しく、毎日が門出である。
日々是新なれば、すなわち日々是好日。素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく、毎日が元気。
◆松下幸之助さんは、パナソニックホールディングス(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。実際に「松下幸之助社」まであり、そこの祭神であるという。
◆皆、人生は明るく、満足のいくものでありたいと思うのは当然のことである。しかし、なかなか思い通りにいかないのも人生である。だからこそ、「おめでたい朝」を大事にして新しい気持ちで臨まねばならない。そうすれば、松下幸之助さんの言うように「新しい運命が開ける」のだ。1日24時間は平等にあることを忘れてはならないのだ。
◆瀬戸内寂聴さんも「日々これ新たなり」を次のように教えている。二つ目の理由である。
夜の熟睡を死んだように眠るとたとえるのは、適切な表現かもしれません。人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦るのだと考えられるからです。「日々これ新たなり」ですね。
◆寂聴さんは、一度死んで、朝、再び蘇るというのである。生き返るというのである。それは、大きな営みの中で、一度死んで、もう一度この世界にもどしてもらうということでもあろう。そう考えると、「この世で自分が必要とされ、生かされている」のだと実感できるし、今日の新たな命に感謝して、今日1日を丁寧に大切に生きようと思えるだろう。そう感じられるのは、眠りから覚めた「朝」だけなのだ。だから、「蘇りの朝」を大事にしなければならないのだ。
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すてき
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