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耕田院の日常(79回目)山形県羽前大山駅

お数珠

投稿日:2022年10月18日(火)
お数珠」朝四時半の話

七日七日で長くて太くて巨大なお数珠をみた

◆七日七日とは、故人が亡くなった日から数えて7日目が初七日。その後、「四十九日(七七日)」まで7回の法要をいう。故人が次の七七日に仏さまとなり、仏弟子として新たな生をいただく日だ。この49日間を中陰・中有と言い、7日ごとに、故人が仏さまの元で生まれ変わることできるよう供養を重ねていく。七七日供養(法要)の事を、大練忌・四十九日法要という。

◆家人の生まれたところでは、お葬式が済むと、初七日から始まって七日ごとの仕事が終わった夜、仏壇の前に近親者や近所のおばあちゃんたちが集まり、お念仏をあげていた。それが、四十九日の「忌明け」まで続く。その時に初めてみたのが長くて太くて巨大なお数珠だ。そのお数珠を回しながら回数を数え、お唱えをしていくのだ。そして、お数珠の珠は全部で108個あると聞いて、納得した。

煩悩の108

◆お数珠の球と108にはどのような関係があるのだろう。まず思い浮かぶのは、108とは煩悩の珠である。

◆煩悩は三毒に始まり、第一は「苦締貪(くたいとん)」執着する心である。苦締瞋(くたいしん) 苦締癡(くたいち)と続く。108番目は十纏覆 (じってんふく)となる。これは、罪を隠そうとすることである。

AIにない人間の「煩悩の役割」とは

◆つまり、煩悩とは、「煩悩の犬は追えども去らず」(煩悩は人につきまとって、飼い犬がまといつくように離れない)のことわざにもあるように、「身心を悩まし煩わせる心のはたらき」である。人間の業である。迷いや苦しみの原因となる心のけがれのことだ。その反対に、「AI」には煩悩がなく、様々な事を人工頭脳が判断し、感情に左右されることはない。はじめから感情などないのだ。

◆いかにも汚れ切っている人間の業であるが、これを、自覚し、それに負けぬように自分を保つということのための煩悩なのである。越えるべき壁としての業であり、正しく生きていくための戒めである。煩悩があるから正があり誤がある。煩悩がはじめから排除されている「AI」とは異なるのだ。

数珠でつながる追慕

◆もう一つはお数珠に込められた死者への追慕である。お数珠は先に逝った亡き人と仏さま。この世とあの世をつないでいるのだ。

◆こんな芭蕉の句がある。

灌仏(かんぶつ)や、皺(しわ)手合(てあい)する、数珠の音  芭蕉

皺(しわ)の寄った手でお年寄りが一心不乱に拝んでいる姿だ。死と隣り合わせまで生き抜いた人の荘厳さが伝わってくる。先に逝かれた人たちとお数珠で繋がり、言葉を交わしているようにも見える。灌仏(かんぶつ)と花まつりのことである。

信仰の証(あかし)としての数珠

◆瀬戸内寂聴さんの句もあった。

雛(ひな)飾る手の数珠しばしはづし(外し)おき 瀬戸内寂聴
 
寂聴さんはいつも手にはお数珠。信仰の証だ。そのお数珠を外して、雛人形を飾る。この雛人形には、大事な人への特別な願いがあるのだろうか。仏さまより大事な人ではあるまいが、お許しを頂いての「しばし」なのだ。「しばし」とは「ちょっとの間」だけという意味だ。

数珠は宗派で違うので注意

◆ちなみに、お葬式や法事での作法としてこのお数珠は使われる。注意したいのは、この数珠の作法は宗派ごとに違うことだ。曹洞宗では合掌をする時には「数珠を左手の親指と人差し指の間に挟む」のだが、浄土真宗本願寺派では合掌をする時に「数珠を両手の親指と人差し指に挟み、房を小指側に垂らす」如くである。
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