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こうでんいん

耕田院の日常(10回目)
山形県羽前大山駅

投稿日:2022年08月11日(木)
「お供え」 2022/7/16 「朝4時半の住職の話」
◆人は二度死ぬという。一度は身体が滅んだ時。もう一度は、大切な人たちから忘れ去られてしまった時だ。

◆子どもの頃、朝、仏飯をお供えするのが、妹と私の仕事だった。

◆ある時、父に
「なぜ、仏さまにお供えはするか」
と聞いたことがある。父は、
「お供えをしなかったら、仏さまが生きていられなくなるじゃないか」
と言った。

◆仏さまは、お供えもなく、お経もなく、拝む人もなく、忘れ去られてしまえば、仏さまとして死んでしまうというのだ。

◆父は、幼い私たちに、「仏さまが生きている・お陰さまとしてそこにいる」と教えた。姿かたちは見えないが、私たちを見守ってくださる「仏さま・お陰さま」が、そこに在るのだということ。その命をつなぐのが「仏飯」というお供えだということ。だから、私どもが仏飯をお供えすることを怠ってはならないというのだ。

◆人がなくなり「仏さま」となる。死んでもなお、残された縁を結んだ人の幸せを祈り、護りたいと思う。そのお心を絶やしてはいけないということなのだ。そして、残されたものは、「仏さま」「ご先祖さま」への「感謝」の心を忘れてはいけないのだ。その二つの世界をつなぐのが「お供え」なのだ。

◆だから、「お供え」は、「仏飯」でなければならないということはない。立派な供花や形式も飾りでもなくともよい。ただ「私たちの心が届くようにすればよい」のだ。「親しき人」が死者として忘れ去られることなく、私どもとつながり、「仏さま・お陰さま」として生きていただくためのものなのだから。それだから、供養という言葉は、「供えて養う」と書くのだ。

◆昨今は住宅事情も変わり、田舎でも新築する時には仏間をつくらない家が多い。核家族化が進んだという事情もあろう。至極当然である。ご先祖や亡き人の仏壇も小さくなっている。それはそれでよいと思う。仏壇も仏像もお位牌もあったほうかよいとは思うが、無くてもかまわない。しかし、供養の「こころ」だけは無くしてはいけない。そうならない方法を考えなければならない。

◆いいお写真に、朝、お水をお供えして、「いってきます」と手をあわせるのもよいと思う。

◆是非1日1度は、「仏さま・お陰さま」に手を合わせる習慣を。
耕田院(山形県)

すてき

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