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一条八幡神社ではいただけません
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一条八幡神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月30日(土)
参拝:2021年10月吉日
八幡神社(やわた~)は、山形県酒田市市条にある神社。旧社格は県社。主祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の3柱、配祀神は建御名方神、菅原道真公ほか4柱。古くは「一条八幡宮」と称した。
創建は平安時代の877年、出羽国国司・藤原朝臣が蝦夷討伐を祈願して、京都の石清水八幡宮を勧請して創祀。城輪の出羽国府を中心とした律令政治体制の中枢を担っていた(出羽国府宮;総社)と推定されている。室町時代には、神社周辺に彫りを巡らして荒瀬川の水を引き、寄進された種変の田畑への灌漑を行った。戦国時代には最上義光、江戸時代には庄内藩主・酒井氏や坂田の豪商・本間氏から篤く信仰された。明治時代に入ると、県社に列格した。
当社は、JR羽越本線・本楯駅の東方5kmの荒瀬川にほど近い平地にある。交通量のある大きな道が交差する交差点(国道344号線と国道345号線)の角にあって、敷地は広く、社殿は大きく、境内社の数も多くて、さすが旧社格が県社というだけはある。
今回は、山形県の旧県社ということで参拝することに。参拝時は平日の午前中、見どころも多そうなので、本来であればゆっくり見て廻りたかったが、土砂降りのため足早に見て廻ってしまった。自分たち以外にも参拝者がいたようだった。
創建は平安時代の877年、出羽国国司・藤原朝臣が蝦夷討伐を祈願して、京都の石清水八幡宮を勧請して創祀。城輪の出羽国府を中心とした律令政治体制の中枢を担っていた(出羽国府宮;総社)と推定されている。室町時代には、神社周辺に彫りを巡らして荒瀬川の水を引き、寄進された種変の田畑への灌漑を行った。戦国時代には最上義光、江戸時代には庄内藩主・酒井氏や坂田の豪商・本間氏から篤く信仰された。明治時代に入ると、県社に列格した。
当社は、JR羽越本線・本楯駅の東方5kmの荒瀬川にほど近い平地にある。交通量のある大きな道が交差する交差点(国道344号線と国道345号線)の角にあって、敷地は広く、社殿は大きく、境内社の数も多くて、さすが旧社格が県社というだけはある。
今回は、山形県の旧県社ということで参拝することに。参拝時は平日の午前中、見どころも多そうなので、本来であればゆっくり見て廻りたかったが、土砂降りのため足早に見て廻ってしまった。自分たち以外にも参拝者がいたようだった。
境内西端入口にある<一之鳥居>。社号標は見当たらない...
まさか社号標じゃないよね?と思いながら、鳥居の脚元の石碑を見ると<牛馬遠祖 保食大神>とある。
参道を進むと<二の鳥居>の手前に<社号標>を発見。
二の鳥居をくぐると、その先に<神橋>がある。
神橋の先にある<手水舎>。
手水舎から移動して、<拝殿>遠景。境内は非常に広く、綺麗に掃き清められている。素晴らしい!
参道の右手にある<社務所>。御朱印は値段まで書いてあるが、当日社務所は無人で拝受できず。
参道左手にある境内社の<鳥居>。
鳥居の後ろには<加茂神社>。かなり雨がひどくなってきた...(^_^;)
加茂神社から<拝殿>を望む。
左側の<狛犬>。台座が高くて狛犬も大きい。庄内地方のスタンダードかな。
右側の<狛犬>。こちらは子連れ。そういえば、庄内地方の神社十数社目にして、初めて子連れの狛犬を見たかも。
<拝殿>全景。サイズは大型、どっしりとして横に長い。銅板葺の屋根が土砂降りでピカピカ。
拝殿前、参道左側にあるのは<忠魂碑>かな?
<拝殿>正面。2種類の扁額にはともに<八幡宮>とある。
拝殿後ろの<本殿>。こちらも大きめだが、拝殿が大きく横長なので、拝殿前からは角度を付けても見えない。
拝殿に向かって右手にある、出羽國郡司・小野家初代を奉斎した石碑。
上記石碑の近くから見た<拝殿>。土砂降りの中だと、どうしても足早になってしまう...涙
拝殿の正面の位置にある建物。内部が白壁の蔵の扉があるように見えるので、宝物庫か何かかな?
一の鳥居のすぐ南側にある<共同祖霊社>。
すてき
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惣一郎1269投稿
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