とうけいじんじゃ
闘鶏神社のお参りの記録一覧
熊野本宮大社に向かう中辺路と熊野那智大社に向かう大辺路の分岐点にあたる田辺に鎮座されている。熊野三山の参拝に替えたと伝わる別宮的な御社。
源平合戦の時に別当湛増が神前で紅白の鶏を闘わせ、白が勝ったため熊野水軍が源氏に味方したことから、闘鶏神社といわれるようになった。
鶏の像
弁慶と湛増の像
弁慶社
424年熊野坐神社より勧請して創建されたと伝わる。
12世紀前半熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し新熊野と称するようになったという。
1184年源平合戦の時、熊野水軍が紅白の鶏合せにより源氏に味方をした故事により鬪鶏神社と改称された。
1661年建築の本殿(證誠殿)、1658建築の上殿、1748年建築の中殿、下殿、八百萬殿、1737年建築の西殿は重文指定されている。
社殿
社殿
拝殿
本殿(證誠殿)
本殿(證誠殿)
本殿(證誠殿)
本殿(證誠殿)
本殿(證誠殿)
上殿
上殿
本殿・上殿
中殿
中殿
中殿
下殿
下殿
下殿
八百萬殿
八百萬殿
西殿
西殿
西殿
玉置神社
十日戎神社
雞姫弁財天社
雞姫弁財天社
弁慶神社
大楠
藤巌神社
藤巌神社
藤巌神社
そのまま闘鶏神社様へと進みお詣りさせて頂きました。
闘鶏神社様は419年の創建され、11世紀の後半に熊野三所権現を勧請しました。
その後、熊野三山の別宮として信仰を集められました。
闘鶏神社の名の由来とれる境内本殿前の闘鶏のエピソードは、湛増は京に居館を構えており、情報収集に抜かりがあったとは考えづらく、源家に付くか、平家に付くかで揺れ動く熊野の人々に団結を促すため、紅白の闘鶏を行い神慮を占ったとするのが妥当と考えます。
という説に納得させられました。
結果、熊野水軍が源家に付くことで、船数的にも海戦では有利とされていた「海の平家」を檀ノ浦で滅ぼすに至りました。
世界遺産に登録されている、闘鶏神社に2度目の参拝。
イザナミノミコトを始め、複数の神様が祀られている、穏やかな神社です。
藤嚴神社の御朱印もいただきました。
闘鶏境内の境内というか、すぐお隣の藤嚴神社。
御祭神
西御殿
速玉之男命 事解之男神
本殿
伊邪那美命
上御殿
伊邪那岐命 天照皇大神 宇賀御魂命
中御殿
瓊々杵尊命 鵜草葺不合命 火々出見尊
天之忍穂耳命
下御殿
火産霊命 弥都波能売命 稚産霊命
埴山比売命
八百萬殿
手力男命 八百万神
熊野三所権現を勧請
鬪雞神社に祈願して三山参詣に替えたという伝承もあり、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の別宮的存在です。
昔は熊野三山をお詣りするのは大変だったと思います😰
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」追加登録されています。
熊野三山をめぐる熊野古道は
中辺路(北側で山の中を通る路)
大辺路(南側で海側を通る路)
闘鶏神社は中辺路と大辺路の分岐点にあたります。
武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増が、平氏と源氏のどちらに味方をするか熊野三山の神託を得るため、本殿の前で
平氏に見立てた赤い鶏7羽
源氏に見立てた白い鶏7羽
を用意し順番に赤と白で闘わせた。(闘鶏)
結果、白が勝ち、湛増は源氏に加勢。
熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣⚑゛
源氏が勝利、平家は滅亡した。
と有名なお話☺️︎︎👍🏻💕︎(私は知らなかったです🤣)
御本殿は6つの社殿が並んでました。
境内に鎮座
藤巌神社 御祭神 安藤直次公
(現在の田辺の基礎を作った)
農民の貧困対策として梅の栽培を奨励された事が今の日本一の梅の産地につなかってます。🔴
藤巌神社の御朱印
樹齢1,200年と伝わり、市天然記念物に指定されています。延命長寿・無病息災の信仰があり、また、楠の葉を歯痛の患部につけると平癒すると言われています
弁慶社 御祭神 武蔵坊弁慶
家内安全・社運隆昌・立身出世・衆災消除の御利
田辺市にある闘鶏神社です。
名前の由来通り、鶏を闘わせたことから、勝負の神社として知られております。
こちら、2016年に紀伊山地の一部として世界遺産に指定されております。
駐車場が目の前にあるので、車を降りてすぐに参拝できます。弁慶の銅像などもあり、歴史のある神社であることが感じられました。
すぐ隣に公園があるので、子供連れで来られる方は、遊ばせている間に参拝するとこも出来ますよ。
境内には、藤嚴神社もありましたので、そちらにも寄らせて頂きました。
御朱印は社務所にて両社のを書いて頂けました。この度はご縁が出来たこと嬉しく思います。
どうもありがとうございました。
社標
鳥居
手水舎
拝殿
直書きして頂きました。
藤嚴神社の鳥居
藤嚴神社の御朱印です。
紀州田辺の闘鶏神社にお参りしました
熊野権現をはじめ熊野三山の全ての神が勧請され、熊野の別宮的な存在となっています
社務所で御朱印をいただく際に、美味しい紀州梅を一粒くださいました
神社の入り口、大きな鳥居と社柱
鳥居の扁額は「闘鶏神社」
手水舎
拝殿、後ろの森は仮庵山
拝殿
拝殿には注連縄が掛けられています
拝殿の左手にある絵馬かけと西殿
絵馬は、安産祈願の猫と、丸型の鶏、一般的な形のものが掛かっています
社殿が、西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿の順に並んでいます
本殿は外装工事中のようでした
鬪雞の像
鬪雞神社の名は、源平合戦の折に両軍から援軍を要請された熊野別当・湛増が、赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせ神意を占ったことに由来するそうです
鬪雞を行う湛増と弁慶像の像
白の鶏(源氏)が勝利し、湛増は源氏の加勢として熊野水軍200隻を率い出陣したのだそう
湛増は武蔵坊弁慶の父と伝えられ、田辺市内にはあちこちに弁慶に関わる史跡が残っています
源平合戦における鬪雞と熊野水軍のお話
弁慶社
十日戎神社
鶏姫弁財天社
御神木の大楠
藤巌神社
江戸時代に田辺を治め街の基礎を作った安藤直次公が祀られています
藤巌神社の近景
境内の外の公園にも大きな楠がありました
社伝によると允恭天皇8年(419年)に創建⛩
白河天皇の時代(1073~1087)に熊野三所権現を勧請し、熊野参詣の折には鬪雞神社に参拝して心願成就を祈願したと言います⛩
また、鬪雞神社に祈願して三山参詣に替えたという伝承もあり、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の別宮的存在として熊野信仰の一翼を担っていました⛩
社殿は熊野本宮大社が川の増水で流失する以前と同じ配置をしており、熊野信仰の歴史をいまに伝える貴重な場所です⛩
本堂の前に🐓🐓‼️
鬪雞神社の名は平家物語壇ノ浦合戦の鶏合せの故事に由来します🐓
源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当・湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせました🐓🐓すると、ことごとく白(源氏)の鶏が勝利したため、源氏に加勢することを決め、熊野水軍200隻を出陣させました。熊野水軍の加勢が合戦の勝敗に結びついたともいわれます🐓
境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像がこれです🗡
競馬の勝利に導くと言われている馬の像🐎
ご朱印を撮ってると「闘鶏だから2羽いないとね」と言ってご自分のおみくじも置いてくれた優しいお方が😊
御神木🌳パワーをいただきました😆
世界遺産に登録されている、熊野大権現 熊野三山三世信仰 源平合戦ゆかりの神社。
闘鶏神社です
神仏霊場巡拝の道 和歌山5番
専用御朱印帳にて頂きました
オリジナル御朱印帳
熊野曼荼羅霊場 第1番 専用御朱印帳にて頂きました
平安時代から鎌倉時代初期にかけて熊野別当を務めた湛増が、源平どちらにつくかを占うために闘鶏を行ったという伝承のある神社。湛増は武蔵坊弁慶の父であるという伝承もあり、闘鶏神社境内には弁慶社や湛増と弁慶の像など、弁慶ゆかりの地らしいものもありました。
到着したところ、ちょうど日供祭が行われており、途中からにはなりましたが一緒にお参りしました。出勤前らしい格好の地元の方も数名おられ、地元の方に愛されている神社という感じです。
御朱印は日供祭のあと頂きました。境内には田辺藩初代藩主の安藤直次公をお祭りする藤巖神社もあり、そちらの御朱印もあわせて頂きました。御朱印帳については頂く予定はなかったのですが、弁慶のデザインがあまりに格好よくてつい。
闘鶏神社御朱印
藤巌神社御朱印
手水
湛増弁慶の像
御由緒
藤巖神社の鳥居
弁慶社
弁慶社
玉置神社
JR紀伊田辺駅より徒歩10分以内の近くです。
創建は1600年前に遡ると、田辺の宮に始まり四度の社名変遷を経て全国唯一の社名。
熊野大権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離令により闘鶏神社と改称しています。
かの南方熊楠は神社宮司の四女と結婚されています。
御朱印には鶏合印が押されます。
神社境内入り口手前の鳥居、右手に馬場のなごこり。
拝殿奥に熊野本宮大社の社殿と同じ6棟が横一列並んだ社殿は一部工事中でした。
境内に田辺藩祖安藤家初代を祀る藤巖神社があり、社務所にて御朱印がいただけます。
田辺は弁慶誕生の地と伝えられていますが、父の熊野別当湛増との像。源平の壇ノ浦の戦いでいずれに味方するか決めかね、紅きは平家・白きは源氏の鶏を闘わせ白が勝ち源氏に熊野水軍は味方することになったと。
参道途中に、田辺市街なかポケットパークが有り、ガイドさんや観光情報が得られ、きれいな公衆トイレがあります。
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