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2024年02月18日(日) 17時22分 byよしくん(ホトカミ運営代表)
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当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。御祭神は家津御子大神、すなわち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木の国)の語源もここから起こっております。 大神は植林を御奨励となり、造船の技術を教えられて、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに、生命の育成発展を司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延㐂七年(約千年前)宇多天皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇・上皇・女院の御幸は百数十年に及びました。これが史上有名な熊野御幸であります。 これと前後して当時の神仏習合によって、御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらかが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分霊を祭り、その数は現在五千数社を数えています。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱と様々な変災の渦中にありながら人身の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して、明治時代に至りました。 現在の社殿は享和二年、徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里、現本宮町大斎原(指定文化財)に建立されましたが、明治二十二年の大出水にあって現在地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。 なお旧社地は大斎原と呼び、石祠二殿を仮宮として、西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祠してあります。
編集後
当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)のひとつであり、全国の熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。御祭神は家津御子大神、すなわち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木の国)の語源もここから起こっております。 大神は植林を御奨励となり、造船の技術を教えられて、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに、生命の育成発展を司られた霊神で、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延㐂七年(約千年前)宇多天皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇・上皇・女院の御幸は百数十年に及びました。これが史上有名な熊野御幸であります。 これと前後して当時の神仏習合によって、御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらかが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分霊を祭り、その数は現在五千数社を数えています。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱と様々な変災の渦中にありながら人身の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して、明治時代に至りました。 現在の社殿は享和二年、徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里、現本宮町大斎原(指定文化財)に建立されましたが、明治二十二年の大出水にあって現在地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。 なお旧社地は大斎原と呼び、石祠二殿を仮宮として、西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祠してあります。